イランの概況
I プロローグ
イラン Iran アジア南西部、カスピ海の南、ペルシャ湾とオマーン湾の北にある共和国。正式国名はイラン・イスラム共和国。1930年代まではペルシャとして知られ、06〜79年まではシャー(国王)の統治する君主国だったが、イスラム主義者によって共和国が樹立された。世界最大の石油産地のひとつ。総面積は164万8000.00km2。人口は6895万9931人(1998年推計)。首都のテヘランは国内最大の都市。
II 国土と資源
国土の大部分は山脈、高原、砂漠の荒れ地だが、鉱産資源は豊富である。地震が多く、過去に幾度も深刻な被害をうけている。
1 地形
イランの中央部には山脈が周りをかこむ標高1200mのイラン高原がある。北部にある山脈は、国内最高地点のダマーバンド山(5601m)をふくむエルブルズ山脈で、国内最低地点(海抜28m)のカスピ海の南岸にそって広がっている。西部の国境沿いにはザグロス山脈があり、ペルシャ湾と平行に南東にのびている。中央高原の東側には標高の低い山がつらなる。北部にあるアゼルバイジャンの高原や、カスピ海沿いの狭い平野部は肥沃(ひよく)だが、それ以外に平坦な土地は南西部のフゼスタン平野にしかみられない。
乾燥地域には、砂と岩でおおわれた東部のルート砂漠と、塩でおおわれた北部のカビール砂漠がある。河川は降水量の多い季節にしかできず、山脈からの川はカスピ海、ペルシャ湾、オマーン湾にそそぐ。国内の主要な河川は、ザグロス山脈からホッラムシャハルでシャッタルアラブ川に合流するカールーン川で、航海にたえうる数少ない川のひとつである。カスピ海以外には湖もあまりなく、あってもそのほとんどは夏季には狭まり、塩分濃度が高くなる。
2 気候 気候的には、ペルシャ湾とオマーン湾沿いの暑い地域、温暖だが乾燥した大陸型気候の中央高原、エルブルズ山脈の寒い台地の3つにわけられる。内陸部の高原にあるテヘランの気温は、1月では-3〜7°C、7月では22〜37°C。ペルシャ湾近くのアバダーンでは、1月では7〜17°C、7月では28〜44°C。年降水量は、テヘランで平均約250mm、アバダーンでは200mm以下となっている。
3 植生・動物・天然資源 半乾燥の高原地域は、牧草でおおわれている。ザグロス山脈では、おもにオーク、ニレ、ピスタシオ、クルミの森がある。北部にあるエルブルズ山脈の海側の斜面とカスピ海の平野では、トネリコ、ニレ、オークなどの広葉樹がみられる。中央の乾燥した高原では、灌木(かんぼく)やサボテンがみられる。ほかに、ウサギ、キツネ、オオカミ、ハイエナ、ジャッカルなど多くの野生動物がいる。ペルシャ湾にはペリカンやフラミンゴ、カスピ海にはチョウザメや淡水魚が生息している。
イランのもっとも重要な天然資源は石油と天然ガスで、南西部にあるフゼスタン州に主要な油田が集中する。鉄、銅、鉛、亜鉛、石炭などの鉱物は、ザグロス山脈やエルブルズ山脈などで発見されている。
III 住民
イラン人の半分以上(51%)は、前2000年に中央アジアからやってきた、インド・ヨーロッパ語系のペルシャ人である。ほかに24%を占めるアゼリー、ギーラーンとマーザンダラーン、クルド、アラブ、ロル、バルーチ、トルクメンなどの諸民族がいて、ペルシャ人を中心に諸民族が複雑に混在している。
1 人口
人口は6895万9931人(1998年推計)で、人口密度は42人/km2だが、北部と西部に集中している。約60%が都市部にすみ、その割合は1970〜80年代に大きく増加した。60年代半ば〜90年代半ばに、出生率は死亡率にくらべてかなりさがったが、90年代半ばの人口増加率は2.7%と高い数字をしめしている。
首都テヘランが国内最大の都市で、人口は675万8845人(1996年)である。そのほかの主要都市には、穀物の中心地で、商業と交通の重要な拠点であるマシュハドや、工業と商業の中心地で、うつくしいモスクなどの建造物で有名なイスファハーンがある。
2 言語 公用語は、インド・ヨーロッパ語族の一派、インド・イラン語派のひとつであるファルシ(現代ペルシャ語)である。ファルシは中世ペルシャ語(→ ペルシャ語)から発生し、アラビア文字(→ アラビア語)がつかわれている。ファルシは半数の国民が話すが、残りは個々の民族の言語をつかい、民族構成と同じように複雑である。→ アラブ文学:ペルシャ文学
3 宗教
国教はイスラム教のシーア派で、国民の95%がシーア派教徒である。国内にはシーア派の聖地がいくつもあり、なかでもテヘランの南にある宗教都市コムが名高い。スンナ派が4%を占めるほか、少数のキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒、バハーイー教徒がいるが、いずれもシーア派が占める政府からなんらかの抑圧をうけている。イラクやアゼルバイジャンなどの国境付近には少数民族が多くすみ、イラン政府より自分たちの民族に対する帰属意識のほうが強い。南東のバルーチ、北東のトルクメン、西のクルドはスンナ派。北西部にすむアゼルバイジャン(アゼリー)はシーア派だが、1970年代後半〜80年代に、イランのシーア派聖職者と衝突した。
4 教育と文化
1979年にイラン革命がおこると、国内の教育機関、文化生活はシーア派イスラムの教えにしたがうこととなり、それまでの西洋的なものは駆逐された。義務教育は6〜10歳だが、教員不足と80年代のイラクとの戦争による政情不安で、あまり徹底されていない。高等教育機関としてテヘラン大学(1932年創立)、イスファハーン大学(1950)、シーラーズ大学(1945)など29の大学があるが、いくつかの大学は80年代初めに閉鎖、改名された。
イスラムは、芸術、文学など、イランの文化や生活全般に大きな影響をあたえている。1979年の政治改革以来、シーア派聖職者によってイスラム化がすすめられ、女性は頭から体全体をチャドルとよばれる黒布でかくすようになり、映画館は閉鎖され、ラジオでの音楽が禁じられた。国内には有名な博物館が数多くある。テヘランには、遺跡が多く展示されているイラン・バスタン博物館、イランの芸術品を展示してあるネガレスタン博物館がある。シーラーズにはクム博物館やパルス博物館がある。テヘランには国会図書館がある。→ イラン美術
IV 経済
石油産業による巨額な収入は、1960〜70年代にイラン経済を大きく成長させた。しかし、70年代後半におこったイラン革命は、外国資本の流入や新しい産業の振興をいちじるしく停滞させた。革命で大きなダメージをうけたイラン経済だが、それにつづく対イラク戦争や、80年代半ばの石油価格暴落で、さらに痛手をうけた。しかし、西側諸国との関係改善や、新しく独立した中央アジア諸国との経済交流で、イラン経済の展望は大きく広がった。90年代半ばのGDP(国内総生産)は、推定900億ドルで、年間約5%の割合で成長している。通貨単位はイラン・リアル。
1990年代半ばの推定では、労働者人口はおよそ1540万人で、全労働者の24%が農林漁業に、28%が鉱工業や建設業に、44%がサービス業に従事している。90年代初めの失業率は30%だが熟練労働者は不足している。
1 農林漁業
1950年代にはじまった農地改革のもと、約80万haの土地が貧農の所有になった。しかし、工業化がすすむ中で農業と他の産業の格差が開きつつある。主要農作物は、小麦、大麦、ジャガイモなど。換金作物は主として果物と乾燥果物で、その輸出額は90年代初めに石油以外でえた収入の約30%を占めている。そのほかに、米、ブドウ、テンサイ、サトウキビ、野菜、豆類、茶などがつくられている。家畜は牛、ロバ、ヒツジ、ヤギ、ニワトリが飼育されている。
1970年代の木材の生産高は、過度の伐採をさけるため、600万m3を維持していたが、90年代になって680万m3と微増した。漁業はイラン経済にとって重要な分野で、年間水揚げ高は80年代後半〜90年代に順調にのびている。ペルシャ湾とカスピ海では、コイ、ニシン、マグロなどがとれる。イランのキャビアは世界最高級とされている。
2 鉱業
イランは石油の生産地だが、南西部のペルシャ湾付近の油田地帯は、世界でもっとも豊富な埋蔵量をほこっている。1951年に国営化された石油会社が石油産業を管理している。石油価格の暴落をふせぐために産出量をおさえたが、主要な油田がイラクとの戦場になったために、70年代後半〜80年代初めに石油の産出量は大きく減少した。しかし90年代にはいると増加しだした。ほかの鉱業は鉄鉱石、鉛、亜鉛、銅などの採掘がある。
3 工業・貿易 1970年代に工業は石油精製、化学、自動車などで大きく発展した。現在の主要工業品は、繊維、砂糖などの加工食品、建築用品などがある。アバダーンは世界最大級のプラントだったが、80年代初めのイラクとの戦争で深刻な被害をうけ、他の工業も同様に停滞している。また、みごとな技術のほどこされた絨毯(じゅうたん)は伝統的な工業品として知られる。
イランの輸出額の90%以上は、原油と石油製品で占められている。そのほかには、絨毯、果物、ナッツ、動物の皮など。おもな輸入品は機械、鉄や鋼鉄、食料、薬品など。1994年の輸出額は194億ドル、輸入額は126億ドル。おもな輸出相手国はドイツ、イタリア、アラブ首長国連邦、スイスなどで、輸入相手国はドイツ、日本、アラブ首長国連邦、イタリア、トルコなど。
V 政治
1906年からつづいたシャーによる君主制は79年に廃止され、イスラム教を基礎とするイスラム共和国が建国された。国家元首は最高指導者とよばれる宗教指導者で、立法、行政、司法の上位にたち、軍をも統制する。行政府の長は大統領で、4年ごとに国民の直接選挙で選出され、内閣閣僚を任命する。立法機関はマジュリスとよばれる一院制の国会で、290名の議員は4年ごとに選出される。閣僚は国会の信任をえなければならず、国会は大統領を弾劾することもできる。16歳以上のすべての市民に選挙権があたえられる。イスラムの聖職者と法学者とで構成される憲法擁護評議会が国会議決の審査権をもち、選挙の際には候補者の資格審査をおこなう。
司法長官は最高指導者によって任命される。1979年のイラン革命でイスラム法(→ シャリーア)が導入され、革命以前にあった裁判所は廃止された。法廷では裁判官が検察官をかねる。イランの法律は厳格なイスラム法にもとづいており、100以上の犯罪が死刑になる可能性をもっている。一般裁判所以外にイスラム聖職者をさばくための聖職者裁判所があり、最高指導者に直属し司法府から独立している。
イランは25の州にわけられ、その下に195の郡と500の地区があり、その下に村や町がある。州知事や郡と地区の長官は中央政府から任命される。1979年の革命以来、イスラム共和党(IRP)とその同盟政党が国会を独占していたが、87年にIRPは解散させられ、92年にはイスラム系のルハニヤトとルハニヨウンの2党以外の政党は禁止された。
18歳以上の男子には2年間の兵役が課せられ、1997年のイランの兵力は51万8000人で、陸軍35万人、海軍1万8000人、空軍3万人、国内の治安を維持する革命防備軍が12万人いる。イランは国際連合の原加盟国で、OPEC(石油輸出国機構)の一員でもある。
VI 歴史
イラン南部のファール地方におこったアケメネス朝は、イラン人最初の国家メディア王国をほろぼし、西アジアを統一。ダレイオス1世の時代には、エジプトからインドまでを領域にした古代ペルシャ王国をきずいた。西方でギリシャとたたかい、前331年アレクサンドロス大王にほろぼされた。のち、シリア王国のセレウコス朝、イラン系で中国の漢とシルクロードで通じたパルティアにかわった。
226年、パルティアをたおしたイラン人のササン朝がおこった。ゾロアスター教を国教とし、初代から3代の王の間に、強力な軍事力で領域を西アジア一帯にふたたび拡大。ローマ、インド、中国との交易の要衝で、経済的にも文化的にも黄金時代をきずいた。→ ペルシャ
1 イスラムの侵入 641年にイスラム教徒のアラブ人によってササン朝帝国が征服された。以後、イランは完全にかわる。それまで信仰されていたゾロアスター教は、イスラム支配者に黙認されたとはいえ、イスラム勢力にはかてずに徐々に衰退し、現在ではごく少数の信者をのこしてほとんど消滅に近い状況になっている。641年以来、イランは完全なイスラム国家となった。しかし、それまでのイラン文化がとだえたわけではなく、逆にカリフにも以後のイラン文化にも大きな影響をあたえた。
2 トルコとモンゴル
11世紀半ば、イランはトゥグリル・ベクひきいるセルジューク・トルコに征服されると、その後4世紀にわたってセルジューク朝、チンギス・ハーンひきいるモンゴル、同じくモンゴルの遊牧民族をひきいるティムール、トルクメン人による支配をうけた。トルクメン人による支配は、1502年、第4代カリフの子孫といわれたイスマーイール1世によって終止符をうたれた。彼はイラン人から聖者のように思われ、みずからをシャーとしてサファビー朝を建国した。その支配は1722年までつづき、イランの国教としてのシーア派をきずき、はじめてイラン民族の統一国家となった。
イスマーイール1世の出現で、周辺諸国を支配していたオスマン帝国との衝突がはじまった。抗争はその後1世紀にもわたり、一時は窮地におちいった。1623年に歴代サファビー朝でもっとも傑出した支配者アッバース1世が、バグダッドを征服することでおわった。アッバースの時代は、国内で諸改革を実施して王朝を強化し、貿易を振興するなどして最盛期をむかえた。つづく1世紀の間に、イランは徐々に衰退し、1722年に隣国のアフガン軍による攻撃で、サファビー朝は崩壊、首都は占領された。
3 ヨーロッパ勢力の侵入 サファビー朝崩壊の2年後、イラン国内の混乱を利用して、ロシアとトルコはイラン分割の協定をむすんだ。しかし、アフガン軍を撤退させ、1736年にアフシャール朝の王位についたナーディル・シャーは、2年後にインドに侵入し、39年にデリーを包囲した。その一方でロシアとトルコ勢力を国内から撤退させ、イランは外国の占領から解放された。47年にナーディル・シャーが死ぬと、50年にザンド朝にかわり比較的平穏で繁栄した時期をむかえた。
1794年にアーガー・ムハンマド・ハーンがみずからシャーを名のり、その後1925年までつづいたカージャール朝を建国した。1797年にムハンマド・ハーンの跡をついだ甥(おい)のファトフ・アリー・シャーの時代に、イランの貿易と金融に対するイギリスの影響力が大きくなった。19〜20世紀初めは、ロシアとの2度の戦争、イギリスとの戦争で敗北し、領土割譲、不平等条約の締結など王朝は弱体化した。
4 ナショナリズムとマジュリス
20世紀初めの、西欧諸国によるイランへの軍事的経済的な圧力の増大と、王朝の専制支配と腐敗に対する不満は、立憲政府の確立をもとめるナショナリストの運動へと発展した。1906年、はじめてマジュリス(国民議会)が開かれ、自由憲法が作成された。さらにイラン経済の再建と西欧列国からの独立、国民の平等、立憲君主制などがきめられた。政府は、強圧的にその動きをつぶそうとしたものの失敗した。
5 パフラビー朝の成立 第1次世界大戦中(1914〜18)イランは中立の立場をとったが、南西部地域は油田をめぐってあらそうイギリスとロシア・トルコの戦場となった。1919年に、イラン政府はイギリスの干渉をみとめる協定に調印したが、マジュリスが批准を拒否し、2年後にイギリス軍はイランから撤退した。その直後、イランのコサック軍司令官のレザー・シャー・パフラビーがテヘランを占拠、新政権を樹立した。23年には首相になり、その2年後にはカージャール朝を廃してシャーになり、軍事力を背景にしたパフラビー朝をたてた。彼はイランの完全な独立を提唱し、交通・通信網を改善、西洋化や近代化をすすめた。36年にシャーの妻と娘が、公式の場でベールを着けなかったため、それ以後ほとんどの女性がベールの着用をやめたといわれる。36年に、イランはイラク、トルコ、アフガニスタンと友好関係をむすんだ。
6 第2次世界大戦 第2次世界大戦がはじまったころ、ドイツ、トルコ、イギリス、ソ連はイランと同盟をむすぼうとして失敗した。しかし、油田をドイツからまもるとして、イギリスとソ連がイランに侵入、占領した。枢軸国寄りだったパフラビーは失脚し、跡をついだ息子のモハンマド・レザー・パフラビーは、親連合国の立場をとった。イギリスとソ連は、イランに経済的、政治的、軍事的援助をおこなうことを約束した。
1943年には、ソ連がイラン国内のイギリス・アメリカ勢力の拡大からソ連をまもるためとして、イラン北西部の占領地域を封鎖した。43年11月、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳によるテヘラン会談で封鎖は解かれた。
1945年には、連合国がソ連に戦備品を輸送するため、ボスポラス海峡やダーダネルス海峡をつかうようになったため、陸路としてのイランの重要性はなくなった。そのためイラン政府は、占領国に軍の撤退をもうしいれたが、アメリカは合意したものの、イギリスとソ連は拒否した。長い交渉の末、イギリスとソ連は46年3月までに撤退することに同意したが、イラン政府はソ連の占領地における親ソ勢力による独立運動に神経をとがらせることになった。11月半ばには、アゼルバイジャンでソ連の支援をうけた独立の動きが高まった。
7 石油をめぐる戦い 1945年6月、イランは国際連合に加盟した。46年後半、ソ連はソビエト・イラン石油会社の設立にむけて動きだしたが、イラン政府はアメリカの援助にたよることでそれを拒否し、独自の5カ年計画を開始した。イランの発展はめざましく、49年には親ソ派のトゥーデ党を非合法化し、国会を二院制とした。同時に、石油に対する外国特権に対して国内の不満が高まったため、政府はその解消策としてイギリスに石油料金の値上げをもとめたが拒否され、政治危機にまで発展した。50年6月にはアリ・ラズマラ将軍が首相に就任し、経済再建にとりくんだ。しかし、石油産業の国営化に強く反対したため、51年3月にナショナリストの過激派に暗殺された。
8 石油産業の国営化 ラズマラの暗殺後、1951年4月に首相となったモサッデクは、石油産業の国営化をすすめ、イギリス・イラン石油会社の立ち退きをきめ、イギリスに要求した。交渉は失敗し、イギリスは同年10月、アバダーンの製油所から自国の技術者を撤退させた。52年7月初め、モサッデクは憲法上の手続きをとって退任し、元首相のアフマド・カバンが新政権を樹立した。モサッデク前首相の支持者は、これに反対して暴動やゼネストにうったえたため、カバンは退任し、7月モサッデクはふたたび首相となった。
9 モサッデクの独裁 1952年10月にはイギリスと国交を断絶。53年初め、国会はモサッデクの独裁権の1年延長をきめ、モサッデクはシャーの権限を削減すべきだと主張した。親モサッデク派と王室派の対立は、53年の夏にクライマックスをむかえた。モサッデクが下院を解散させたため、シャーは8月にモサッデクを解任したが、彼はそれを拒否、支持者が暴動をおこしたため、シャーはローマに逃亡した。3日間の流血闘争ののち軍と警察を味方にした王室派はテヘランを掌握し、モサッデクらを逮捕した。8月にアメリカの支援のもとシャーが帰国し、ザーヘディー将軍の新政権を発足させた。2カ月後、イランはイギリスと国交を回復、モサッデクは懲役3年の刑に処せられた。
10 石油産業再開 1954年4月にイラン政府と石油合弁会社8社の代表が、国営化された石油産業の再開について協議をおこない、その結果、合弁会社がイランと利益をわけあいながら石油産業を経営することとなった。イランにある石油資源に対する国際的な関心は高く、イタリアが今までにないほどの高値のマージンをはらうことで、57年7月にイラン・イタリア石油企業体が成立した。アメリカも収益の25〜75%をイランにしはらうとしたため、翌年にはアメリカとの協定もむすばれた。
11 シャーの権力拡大
アメリカの援助で1953年にパフラビー朝の王位に復帰したレザー・パフラビー・シャー(パーレビ国王)は、権力を集中し、59年3月にはアメリカとの軍事協定に調印するなど、親米的態度をとりつづけた。60年7月に、イランはイスラエルを承認したため、エジプトとの関係が悪化し、アラブ連盟はイスラエルに対するボイコットをイランに対しても適用した。63年1月には農地改革、国営工場の民営化、婦人参政権をみとめるなどの国内改革、いわゆる白色革命をはじめた。66年には大・中規模の土地が分割され、400万世帯の農家に分配された。60年代、シャーは農地改革をつづける一方、アメリカの支援をうけて国内産業と軍の近代化をすすめた。また、国民の生活水準もこの時期には急速に向上した。
12 シャーの政策変更 1967年10月、シャーは正式に戴冠した。シャーの統治は独裁性が強化され、アメリカへの依存は少なくなっていた。70年代初めには、アラブ諸国に接近したが、シャッタルアラブ川と、ペルシャ湾の島の帰属をめぐって対立していた隣国イラクは除外された。75年、シャーは複数政党制を廃止して、イラン復活党の単独政党制をしき、新しく国民評議会を開設した。
13 イスラム革命
1970年代は石油による収入で経済成長はつづいていたが、零細商工業者の困窮、農民の都市流入など、国民の経済格差が広がった。イスラム教の指導者を中心に、強圧的なシャーへの不満は高まった。反対派に対するシャーの弾圧はきびしく、サバクとよばれる秘密警察が暗躍した。70年代後半には、サバクによる人権侵害を批判した反政府デモは、国内や国外に広がった。
1978年には、西欧型の近代化に反対し、国をイスラム法で統治したいとするイスラム教シーア派教徒のデモが、国内の各都市でくりひろげられた。シャーに敵対して63年にフランスに亡命していたシーア派の聖職者ホメイニーが、この運動の指導者だった。78年の年末には内戦状態におちいり、翌年1月にホメイニー支持者はシャーを国外に追放し、彼の37年間の統治に終止符をうった。その直後に、ホメイニーは帰国した。→ イラン革命
14 イスラム共和国の誕生 1979年4月1日、多くの支持のもと、ホメイニーはイスラム共和国の樹立を宣言、最高指導者に就任した。彼はアメリカとの親密な関係もおわらせ、サバクのメンバーやシャーの支持者を国外に追放した。79年11月、シャー(パーレビ国王)がアメリカへの入国をゆるされると、革命軍はテヘランのアメリカ大使館を占拠し、66人のアメリカ人を人質にした。13人を解放したが、残りの53人はのこされた。革命軍はアメリカに、シャーを擁護するような行動への謝罪、裁判のために彼を帰国させること(1980年7月にシャーが死亡したため未解決)、シャーがもちだしたといわれる数十億ドルの返却をもとめた。
人質をのこしたまま(1981年1月に解放された)、イランは経済的な混乱、内政不安、外国の脅威に対抗しうるだけの力をもつ新政権を発足させようとした。1979年12月にはイスラム法にもとづいた新憲法が公布され、翌年1月に大統領選挙がおこなわれた。エコノミストのアボルハッサン・バニ・サドルが選出されたが、国会では聖職者側が優勢で、大統領に反対するムハンマド・アリ・ラジャイを首相に選出した。大統領と首相の亀裂(きれつ)は政権を弱体化させたが、そのすきに西部のクルド、北部のアゼリー、南西部のフゼスタンのアラブというイランの少数民族が、自治をもとめて武力行使にでた。
1980年9月、イラクは75年にペルシャ湾の島についてイランとかわした取り決めの修正と、アラブ少数民族の自治を要求。政府がこれを拒否したため、イラクは軍をイランに侵攻させて、油田地帯のフゼスタンを占領、イラン・イラク戦争がはじまった。
15 対イラク戦争
1981年6月には、ラジャイ首相がバニ・サドル大統領を国外に追放して大統領になった。しかし8月の反政府派の爆発事件で、ラジャイと彼の後継者の首相をふくむ指導者の多くが殺害された。反政府派のテロ活動はその後もつづくが、政府は大量の逮捕と処刑で応じた。10月にハメネイが、その年急進派をおさえて3人目の大統領となった。81年末には、イランはイラクとの本格的な戦闘体制にはいり、翌年5月にはイラク軍を領土外に撤退させた。85年と86年には、アメリカの国家安全保障会議のメンバーが、イランに武器を秘密に売却するというイラン・コントラ事件がおきている。88年8月、両国はようやく停戦に合意し、双方で推定100万人の死者と170万人の負傷者をだしたとされる戦争は終結した。
1989年6月にホメイニーが死去すると、ハメネイ大統領がイランの最高指導者となり、7月にラフサンジャニが大統領に選出された。イランはイラクのクウェート侵攻も、アメリカ軍のサウジアラビア駐留も非難したが、イラクとの国交は復活させた。91年の湾岸戦争では、中立の立場をとった。連合軍とイラク軍の緊張が解けると、イランはイラク南部にすむシーア派教徒がおこしたイラク政府への反乱を支持した。
ラフサンジャニ大統領のもとで、イランは国内改革や対イラク戦争で打撃をうけた経済の再建をはかって、西側諸国との関係を改善していった。しかし、対外債務の増加とインフレで、経済は悪化をつづけた。また、アルジェリアとエジプトは、イラン革命以来、自国のテロ・グループをはじめとするイスラム過激派の国際的なテロをイランが支援していると主張したが、イランはそれを否定した。1993年6月に、ラフサンジャニは大統領に再選された。95年4月30日、アメリカのクリントン大統領は、イランによる武器製造と国際テロ支援を理由に、すべての対イラン貿易投資や、アメリカ企業が世界市場で転売しているイランの原油の購入を中止した。ついで96年8月には、クリントン大統領が、イランおよびリビアに大規模な投資をおこなった外国企業にはアメリカとの貿易を制限するとの対イラン・リビア制裁強化法に署名し、EU諸国などの反発をまねいた。
1996年3、4月に総選挙がおこなわれ、前回にひきつづき保守派がラフサンジャニ大統領らの穏健派をおさえて最大議席を獲得した。97年5月にはラフサンジャニ大統領の後継を選出する大統領選挙が実施された。初の複数候補による選挙となり、穏健、急進両派の支持するハタミ元イスラム指導相が厳格なイスラム主義派のナテクヌーリ国会議長に圧勝した。
16 ハタミ政権 1997年8月、大統領に就任したハタミは、青年、女性の圧倒的な支持を背景に、文化面を中心にして、イスラム教によるきびしい政教一致体制の改革と自由化をすすめた。多くの新聞、雑誌が創刊されたが、改革を支持する新聞、雑誌が保守派によってたびたび発禁処分をうけた。
1997年12月、テヘランで、イランが議長国となってイスラム諸国会議機構(OIC)首脳会議がひらかれた。会議は、イスラエルの占領政策を非難しつつも、パレスティナ和平のためのオスロ合意(1993年締結)を大筋でみとめた。これは、従来パレスティナ和平に反対してきたイランが、周辺アラブ諸国に対する融和へと政策を転換したことを示すものであった。
ハタミ大統領は、1999年3月にイタリアとバチカンを、10月にフランスを訪問したが、これはイランの大統領としてはじめての西側諸国訪問となった。イラン革命以来対立状態がつづくアメリカに対して、ハタミ大統領はしばしば関係正常化をはたらきかけたが、そのつど保守派で最高指導者のハメネイ師が大統領を牽制した。
ハタミが大統領に就任した当時の国会は、1996年4月の選挙で保守派が多数を占めていた。しかし、99年2月に地方議会選挙がおこなわれ、ハタミ支持の改革派が圧倒的な勝利をえた。ついで2000年2月に国会選挙がおこなわれ、同じく改革派が圧倒的多数を占めた。とりわけハタミ大統領の実弟が党首をつとめる急進派組織「イラン・イスラム参加戦線」が躍進し、急進派だけでも議会の過半数を制した。これに対して保守派は、司法府を中心として改革派の新聞を矢つぎばやに発行禁止処分にし、メディア統制をつよめた。5月、新議会が発足した。この間の98年7月に、中距離弾道ミサイル「シャハブIII」の発射実験をおこなっている。
イランは、外貨収入の8割を石油輸出に依存している。OPEC(石油輸出国機構)は1997年12月に増産合意し、そのため原油価格が低迷し、イラン経済は打撃をうけた。99年3月の減産合意によって原油価格はもちなおしたが、2000年3月ふたたび増産合意がなされ、その際イランは反対の立場をとった。97年にフランスの石油会社トタルと、99年にはロイヤル・ダッチ・シェル・グループと、イラン国内の油田開発の契約をかわした。[1]
( 以上、「エンカルタ百科事典」より )
[1]"イラン"
Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2001 (C) 1993-2000 Microsoft Corporation.
All rights reserved.