ラオスの概況
I プロローグ
東南アジア、インドシナ半島北部の共和国。正式国名はラオス人民民主共和国。面積は23万6800ku。人口は526万842人(1998年推計)。
II 国土と資源
地形は、北部山地と北東部に広がる高地(ジャール平原)、ベトナムとの国境沿いに走るアンナン山脈とタイとの国境を形成するメコン川にはさまれた中部から南部の低地とに3区分される。国土の約90%を占める山地は、北部では深くて狭い渓谷で分断された密林山脈と高原に、南部ではボロベン高原となっている。おもな平野にはビエンチャン平野がある。
メコン川は、ビエンチャンの西方からタイとの国境をながれ、南部でカンボジア領に入る。
1 気候
気候は熱帯モンスーン気候に属している。気温は高地と平地での較差が大きい。雨季は夏の5月から10月にかけて、乾季はほぼ11月から2月となる。比較的すずしい乾季をのぞき、全般に暑くて湿度が高い。ビエンチャンでもっとも暑い4月の平均気温は28.9°Cで、1月の平均気温は21.7°C。年降水量は1778mmである。
2 動植物と天然資源
国土の55%は森林で、常緑広葉樹の生いしげる熱帯雨林と常緑樹と落葉樹の混在した熱帯モンスーン林がともにみられる。野生動物は多く、とくに森林に生息し、ゾウ、ライオン、ヒョウ、トラなどがいる。ゾウは、近隣諸国と同様に荷物運びに使役される。
森林資源ではチーク材などが木材として重要である。鉱物資源はスズをのぞいては少ないが、地質調査で豊富な鉄鉱石の鉱床の存在が明らかになっている。肥沃(ひよく)な土壌の地域はメコン川沿いの河谷平野や最南端のボロベン高原である。メコン川の水は広大な田畑を灌漑するとともに、川の魚が主要な食糧源となっている。水量は豊かで、水力発電の潜在能力は大きい。
III 住民
人口は526万842人(1998年推計)で、人口密度は22人/kuである。総人口の約4分の1は山地に、ほかはメコン川やその支流沿いに居住する。80%以上の人々は地方の村落に住んでいる。
住民は3つの主要な民族からなる。最大の民族はタイ系のラオ族で、総人口の約50%を占め、おもにメコン川やその支流沿いの平地に住む。インドネシア系のラオ・トゥン族(山地ラオ族、カー族とも呼ばれる)は高地に住んでおり、モン族(ミャオ族)やヤオ族などのシナ・チベット系民族(ラオ・スン族と総称される)は北部の山地に居住する。ほかに少数民族としてベトナム人や中国人がいる。
ラオスの主要な宗教は小乗仏教(上座部仏教)である。山地の住民の多くはアニミズム(精霊崇拝)を信仰しており、ときには仏教と共存する。公用語はラオ語だが、フランス語も政府機関や商業、教育の場で使用される。ほかにシナ・チベット語族なと多数の民族が固有の言語や方言を用いている。
IV 教育と文化
義務教育は7〜15歳の8年間(小学校5年間、中学校3年間)である。政府は識字運動を展開し、1985年の15歳以上の識字率は83.9%であった。90年代初頭には58万人余りが小学校に入学し、約11万8000人が中学校に進んでいる。職業学校や教員養成機関、高等教育機関への入学者数は約1万3000人に上る。ビエンチャンにはシー・サワン・ウォン大学(1958年創立)があり、チャンパサク、ルアンプラバン、サバナケットには高等技術学校がある。
ラオスの生活と文化は宗教と密接な関係にある。どの村にもある仏教寺院は、かつては知的センターとしての役割をもっていた。農民の生活規範は宗教によって決定され、その行動の多くは仏教の暦によって定められている。ルアンプラバンとビエンチャンは「百の寺院の町」として知られており、伝統的な仏教美術や仏教建築が豊富にある。
V 経済
ラオスは天然資源にめぐまれているものの、開発が大幅に遅れている。ほとんどの人は自給的農業に従事し、工業は小規模な消費物資の生産に限られている。世界銀行の報告によると、1995年の国民1人当たりのGNP(国民総生産)は360ドルである。80年代には多額の国家予算不足を旧ソ連やベトナムなどの外国の援助に頼っていた。90年代からは日本やアメリカ合衆国が経済援助を始めている。
1 農業 農業が経済活動の根幹だが、耕地面積は国土の4%以下でしかない。主要作物は米が、国民全体の需要を満たすには不十分である。ほかにキャッサバ、トウモロコシ、ジャガイモ、パイナップル、タバコ、綿花、コーヒー、柑橘類、カルダモンなどが栽培される。豚、水牛、牛、家禽、象、馬などの飼育も行われている。
2 林業と漁業 現代的な輸送網は整備されていないが、森林から伐採されるチーク材などの材木は経済上の源泉のひとつとなっている。1991年に政府は無差別な木材の伐採を禁止したが、林産物が現在も主要な輸出品目であることに変わりはない。香水の原料となるベンゾイン(安息香)や、ニスの原料であるスティックラックは重要な林産物である。
1990年代初めの漁獲高は3万tで、国内消費には十分な量を得ている。
3 鉱業と工業 多様な鉱物の鉱床が発見されているが、産出される鉱物は現在、石膏、スズ、岩塩に限られる。地質調査により石炭、鉄鉱石、鉛、亜鉛などの埋蔵が確認されている。工業は主としてスズの精錬、製材、精米、煉瓦の製造、タバコや履物など消費物資の製造が行われている。
4 通貨と外国貿易 通貨の単位はキップ。地方では物々交換がまだ一般的で、貨幣経済は都市部に限られている。1995年の貿易収支は、輸出が3億4800万ドル、輸入は5億8700万ドル。おもな輸出品は木材、電力、コーヒー、スズで、輸入品は食料品、石油製品、オートバイ、機械、電気製品、鉄鋼、綿製品など。主な貿易相手国はタイ、日本、中国である。
5 交通とコミュニケーション
ラオスに鉄道はないが、道路の総延長は約2万7530km。国内の主要都市間には、国営ラオス航空が運航している。物資の輸送において重要な役割を担っているのはメコン川である。
1995年には、ビエンチャンとタイのノンカイとを結ぶ橋がメコン川に初めて架けられた。
ラオス国内の電話は、1990年代初めに約8300回線ひかれている。国営のラジオ局9局とテレビ局2局が番組を放送している。受信機数は、ラジオ約42万5000台、テレビ約3万2000台であった。
VI 政治
1991年に制定された新憲法に基づき、行政権は国民議会で選出される任期5年の大統領(国家
元首)にあたえられている。大統領は閣僚評議会(内閣)の長である首相に補佐され、閣僚評議会が行政上の職務を遂行する。立法権は一院制の国民議会(定員99名)にあり、議員は5年ごとに直接選挙で選ばれる。司法権は最高裁判所および州、自治市、区の人民裁判所に付与されている。地方行政は16の州とビエンチャン自治市からなる。州、郡または町、村は、ラオス人民革命党中央委員会から任命された各級人民革命委員会が指導している。
1975年君主制の転覆によってLPRP(ラオス人民革命党)が権力を掌握し、それ以来、LPRPがラオスにおける唯一の合法政党である。また、旧ラオス愛国戦線に替わるものとして、ラオス人民革命党を中心にラオス国家建設戦線が79年に組織されている。
1 厚生 保健制度は不十分で、乳児死亡率が高い。1996年の統計では、乳児の死亡率は1000人に対し89人に上り、平均寿命は男51歳、女54歳である。都市部でも近代的な下水と水道設備がないため衛生状態が悪く、病気にかかる人も多い。おもな疾病にはマラリア、寄生虫による病気、赤痢などがある。90年の医師1人当たりの人口は3555人である。公衆衛生省により、約9800のベッドの確保と移動医療班の活動などの医療サービスが進められている。
2 防衛 徴兵制度がとられており、兵役は最短で18カ月。1997年の兵力は、陸軍が2万5000人、海軍が500人、空軍が3500人である。
VII 歴史
ラオスの最初の住民はカー族といわれ、5世紀にはすでにカンボジアの扶南の宗主権のもとで現在のラオスの地に居住していた。その後カンボジアの真臘王国の支配下に入った。真臘王国はクメール人の国家で、その後継国家がアンコール朝である。その間、ラオ族をはじめとするタイ系民族が南詔(現、中国雲南省)からしだいに南下し、カー族にとってかわった。12世紀にはラオ族とほかのタイ系民族はムアンとよばれる部族国家を独自に形成していたとみられるが、この時代の遺物の多くは伝説に包まれている。
1 ランサン王国
アンコール朝のジャヤバルマン・パラメシュバーラ王は娘をラオ族の王子ファーグムと結婚させた。王の援助をうけ、1353年、ファーグムはランサン王国(ランサンは「100万のゾウ」の意)を建設し、王都をムアン・サワ(ルアンプラバン)においた。偉大な征服者の称号をえたファーグム王はラオ族の諸ムアンを併合し、タイのアユタヤ朝やベトナムのチャン朝(陳朝)と交戦する。また、クメール人王妃の努力によって、ラオ族は彼の治世中に小乗仏教(上座部仏教)をうけいれた。
1373年にはファーグム王がしりぞき、息子のサムセンタイが即位した。サムセンタイはさらに王国を強化し、中国の明朝に朝貢した。その後、ベトナムのレ朝(後黎朝)の侵攻にあい、1479年に王都が陥落したが、まもなくベトナム人を撃退し、長期にわたる平和な時代がおとずれる。16世紀にランサン王国の領域は最大となった。1546年、ポーティサラ王は隣接するチェンマイ (ラーンナータイ)王国の王位をえようとし、長子のセーターティラートを同国の王としておくりこんだが、その結果、ビルマ族との間に長期の争いが生じることになる。
1551年にランサン国王に即位したセーターティラートは、ビルマ族の侵攻をふせぐため、63年にビエンチャンに遷都し、旧都をルアンプラバンと改称した。タウングー朝ビルマ王国軍のあいつぐ攻撃をうけて、74年にビエンチャンは陥落し、91年までビルマの支配下に入った。1603年、ボラウォンサー王がビルマからの独立を宣言。37年に即位したスリニャウォンサー王の治世は仏教文化がさかえ、ラオス史上の黄金時代といわれた。41年にはオランダ商人が交易のために渡来している。
17世紀末にスリニャウォンサー王が没したのち、王位継承をめぐる内紛がおこる。1707年、ランサン王国は中部のビエンチャン王国と北部のルアンプラバン王国に分裂。さらに13年にはビエンチャン王国から南部のチャンパサク王国が分立し、ランサン王国は3つの王国に分裂してあらそい、18世紀後半、ついに終焉(しゅうえん)をむかえた。
2 フランスによる植民地支配
シャム(タイ)との戦争の結果、ビエンチャン王国は1778年にシャムの属国となり、同時にルアンプラバン王国とチャンパサク王国もシャムから宗主権の承認を強いられた。ビエンチャン王国のチャオ・アヌ王は1827年に独立を主張してシャムに侵攻したが、逆に王都ビエンチャンを占領され、ビエンチャン王国は滅亡する。
19世紀後半になると、フランスはラオスの地に触手をのばし、1886年にシャムに領事のルアンプラバン駐在をみとめさせた。93年には武力によってシャムに圧力をかけてフランス・シャム条約をむすび、ラオスに対するフランスの保護権をみとめさせた。99年にラオスはフランス領インドシナ連邦に編入される。1904年にシャムの支配下にあったチャンパサク地方をえたフランスは、ルアンプラバン王国には国王と役人を通じて間接的に統治したが、フランス人理事長官が常に最終決定権をもっていた。
第2次世界大戦中は日本がインドシナ半島を占領し、1945年4月、日本軍の後ろ盾によりルアンプラバン国王シー・サワン・ウォンがラオスの独立を宣言。日本が撤退すると、民族主義独立運動組織であるラオ・イッサラ(自由ラオス)が同年10月に臨時政府を組織した。しかし、46年4月にフランスがラオスを再占領し、ラオ・イッサラの指導者たちはタイに亡命した。同年8月、フランスはシー・サワン・ウォン王をフランス連合内での統一ラオス王国の王とし、内政の自治をあたえた。47年5月には憲法が制定され、ラオスは立憲君主国となる。
1949年7月にラオスがフランス連合内の協同国として独立すると、タイに亡命していたラオ・イッサラの指導者の多くは亡命政府を解散して国内にもどってきた。しかし、王国政府に妥協しなかったスパヌウォンら左派は50年8月にネオ・ラオ・イッサラ(自由ラオス戦線)を組織し、北東部のサムヌア省に臨時抗戦政府をうちたてる。53年4月、ネオ・ラオ・イッサラの戦闘部隊パテト・ラオは、フランスとたたかっていたベトナムのベトミン(ベトナム独立同盟会)と連帯し、北西地域を支配下においた。
3 ジュネーブ協定 1954年にはジュネーブ協定の中のラオス条項によって、フランスのラオス侵攻に終止符がうたれた。ベトミン軍とフランス軍はラオスから撤退、パテト・ラオはラオスの北部2省に移動させられ、国際休戦監視委員会が停戦を監視するために設置された。インドシナ半島に対するフランスの影響力が低下すると、かわって55年から王国政府に軍事援助をはじめたアメリカ合衆国の影響力が増大してくる。
1957年11月、中立派の王国政府首相プーマと、異母兄弟でラオス愛国戦線(1956年に自由ラオス戦線を改称=パテト・ラオ)議長のスパヌウォンは、前年以来の交渉の結果として連合政府を組織することに同意した。しかし、パテト・ラオに危機感をもつ右派勢力はプーマを排除し、58年8月に保守的なプイ・サナニコーン内閣をつくり、パテト・ラオ閣僚らを逮捕、投獄した。
4 戦争と停戦 パテト・ラオがゲリラ戦をふたたびはじめると、ソ連がパテト・ラオを、アメリカが右派勢力を支援して、ラオスの内戦は東西の冷戦を反映した代理戦争の様相をしめすようになる。1960年8月に落下傘部隊の司令官コン・レ大尉が右派政府に対するクーデタをおこし、首都ビエンチャンを制圧。その後生じた対立する党派の争いの中で、中立派のプーマ内閣が成立した。
しかし、連合政府の中に左派勢力をとりこむというプーマの企てはアメリカに支持された右派軍の反乱をひきおこし、1960年12月、プーマはカンボジアへの亡命を強いられ、反共主義者のブンウムが首相に就任する。61年半ばには、コン・レひきいる中立派軍と手をむすんだパテト・ラオは国内のほぼ半分の支配権をえた。
1961年5月、ラオス内戦の国際的な拡大を懸念したアメリカ、ソ連、イギリスの呼びかけで、3派(パテト・ラオ=左派、中立派、右派)間の停戦が実現し、ラオスに関する14カ国会議がジュネーブで開かれた。62年6月にジャール平原協定でプーマを首相とする第2次連合政府が成立し、7月にはラオスの中立と外国軍の撤退をさだめたジュネーブ協定が国際的にみとめられた。
5 政権の崩壊 しかし、3派の対立はなおもつづいた。中立派内にも対立が生じ、1964年5月、プーマは右傾化した一部中立派と右派とを統合する。パテト・ラオのスパヌウォンはこれをジュネーブ協定違反とし、プーマを連合政府の正当な首相としてみとめないと主張。65年、パテト・ラオと政府軍の間で公然と戦闘がはじまった。
1960年代半ばから、ラオスはベトナム戦争にひきこまれはじめていた。北ベトナム軍は、南ベトナムでたたかう兵力の補充ルートとして、東部、南部ラオスのジャングルの小道(ホーチミン・ルート)を利用した。70年に米軍はホーチミン・ルートへの爆撃を激化させる。71年2月には南ベトナム軍が同ルートを切断するためにラオス南部に侵攻したが、パテト・ラオによって撃退された。
6 パテト・ラオの勝利 1971年末にパテト・ラオが軍事的優位にたつと、72年10月からビエンチャンで和平会談が開かれ、73年に平和回復と民族和合に関する協定が調印された。74年4月にはプーマを首班とする第3次連合政府が成立した。
1975年4月のカンボジアとベトナムにおける解放勢力の勝利で勢いをえたパテト・ラオは、6月には全ラオスを制圧する。12月に全国人民代表会議が開催されて、王制の廃止、連合政府の解体、ラオス人民民主共和国の成立が宣言された。スパヌウォンが大統領となり、ワッタナ前国王は大統領顧問、プーマ前首相は政府顧問に就任したが、実権はラオス人民革命党書記長で首相に就任したカイソンが掌握した。
1981年に経済的困難に直面し、政府は第1次5カ年計画を実施したが、共産主義政権下での不平不満は拡大した。82年にはおよそ30万人のラオス人が母国から脱出したとみられる。政府は、86年の第4回党大会で採用された「チンタナカーン・マイ(新思考)」の理念にもとづいた経済改革を実施して、国家計画経済から開放市場経済への転換をはじめた。体制を支援するためにラオスに駐留していた約5万人のベトナム軍が90年に撤退すると、ベトナムの影響力はしだいに減少していった。
1991年8月に大統領の権限を拡大する憲法が制定され、カイソンが大統領となる。92年11月にカイソンが死去すると、ヌハク・プームサワンが新大統領に就任。プームサワンとラオス人民革命党書記長カムタイ・シパンドンの新体制は、カイソン政策の継承を表明している。
1996年3月の人民革命党の第6回全国大会で、党人事の大幅な変更がおこなわれ、経済開放政策の行き過ぎに対する抑制がはかられた。11月のASEAN非公式首脳会議で、97年からのラオスのASEAN正式加盟が承認され、97年7月にミャンマーとともに正式加盟した。ついで98年1月にはASEAN自由貿易圏(AFTA)に参加、ほかの加盟国より5年おそい2008年までに関税の引き下げを実施することになった。1997年12月に国民議会選挙がおこなわれ、人民革命党の一党支配下にあって無所属の議員1名が当選した。98年2月に国民議会が招集され、議長にサマン前議長を再選、新大統領にカムタイ・シパンドン人民革命党議長を、副大統領にウドム国家建設戦線議長を、新首相にシソワト副大統領をそれぞれ選出した。
2000年1月、小渕恵三首相が日本の首相としては33年ぶりにラオスを公式訪問した。[1]
(以上、マイクロソフト社「エンカルタ百科事典」より)
[1]"ラオス"
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