作 野口敏夫

 

純 愛(一幕)

 

登場人物 男(真庭 照男)

     (矢部 紀美子)

     その他(女A)

        (女B)

        (女C)

        (通行人)

 

  陽もすっかり沈んだ秋の夕方。所は都会のとある公園の一角。ベンチあり。一人の女、考え深げに腰掛けている。年のころ、20代前半。質素ながら清潔な服装をしている。ややあって、一人の男、急いでやってくる。これは20歳を超えたばかりの紅顔の青年。

 

    ごめんよ、遅くなっちまって―――随分待った?

女   いいえ、10分くらいのものよ。

男   そう、なら良かった! これでもやっと抜け出してきたのさ。なにしろ月末だからね。

女   ごめんなさい。忙しいのに無理言って。

男   とんでもない! あなたのためなら火の中、水の中さ。課長に睨まれるくらいなんともないことさ。

 

女   ―――

 

男   おや、どうしたの? 泣いているね。

 

女   いえ、そんなことないわ。目にゴミが入ったのよ。


男   そうかなぁ、僕にはどうも泣いてるとしか思えなかったけど。


女   ―――


男   何かあったんじゃない? 家のことで。
 

女   ―――

 

男   ま、いいや、あまり詮索するのも悪いから―――ところで、こんなところにいると、どうも湿っぽくなっちゃいそうだから、また例のところへ行って、音楽でも聞きながらゆっくり話そうじゃないか?

 

女   いいえ、照男さん、今日はここで―――どこへも行かないで。

 

男   えっ!?ここがいいの? あなたには珍しいなぁ。なるほどね、月が出ている。中秋の名月っていうやつだな。紀美ちゃんも案外センチなんだねぇ。

 

女   ―――

 

男   どうしたの? やっぱり今夜のあなたはいつもと違うよ。いつもはもっと明るいはずなのに。

 

女   あのね。

 

男   えっ?

 

女   あのう―――言い出せないわ、困ったわ。

 

男   何が?何が困ったの? 困ったことがあったら、お互いに何でも相談しあうって約束じゃないか―――ねっ、言っておくれよ。

 

女   あなたに―――あなたに悪いわ。

 

男   じれったいなぁ、何が悪いの? どんなことあったって僕は驚きはしないよ。さぁ!

 

女   あのね、私―――結婚しなくてはならなくなったの。

 

男   えっ!? け、結婚するって! だ、だれと?

 

女   あなたの知らない人だわ。(堪えきれなくなって泣き出す)

 

男   結婚、あなたが結婚する!?

 

女   ご、ごめんなさい。

 

男   ―――

 

―――間―――(女、泣いている)

 

男   どうして結婚するの? 僕が嫌いになったから?

 

女   そんなことはないわ。私あなたが好きよ、大好きだわ。

 

男   じゃ、何だって、何だって他の人と結婚しなきゃならないの?

 

女   お願いだから、しばらく黙って私の話を聞いてちょうだい!―――夕べね、寝る前に母から懇々と諭されたの。「お前もね、一人娘でもう23歳にもなったんだから、早くお婿さんをとって親を安心させておくれ」ってね。実はもう一月も前から結婚の話は言われていたのよ。だけど私―――あなたのことを思うと―――

 

男   なぜもっと早く打ち明けて呉れなかったの、そんな大事な話―――

 

   (しばし無言)あなたを、あなたを苦しめたくなかったのよ。

 

男   苦しむなんて、そんな―――いつ言われたって苦しいのは同じだよ。

 

女   ―――

 

男   で、相手の男性はどんな人?

 

女   私の遠縁にあたる人なの。優しくていい人だわ。―――その人の方でとても乗り気なの。―――困ったわ、本当に。

 

男   幾つ、その人?

 

女   二十七かしら。

 

男   あなたより四つ年上だね。やはり年上の人って魅力ある?

 

女   それは―――何とも言えないわ。そんな年齢のことでどうのってことはないの。

 

男   嘘ばっかり! あなたは年下の男じゃ頼りないと思っているのに違いないんだ! どうせ坊やですよ、僕は!

 

女   お願い!そんなに興奮しないで! まだ何も決まってしまったわけじゃないわ。

 

男   じゃ、これからどうするっていうのさ?

 

女   それが―――わからないのよ、自分でもどうすればいいのか、全く―――

 

男   もういい!僕は帰る!誤魔化そうたって駄目だ!

 

女   待って、照男さん!

 

男   いやだ!さっさっとその年上の人と式を挙げたらいいでしょう。あなたは僕のこと嫌いなんだよ、分かったよ。

 

女   あなたは私の気持ちを理解してないんだわ。

 

男   私の気持ちを理解していない? 理解してるからこそ祝福してやってんじゃないか。

 

女   そんな皮肉、もう沢山!お願いだからもって冷静になってくださらない?

 

男   冷静になれって? 僕は冷静にしてるつもりだよ。

 

女   そんな筈ないわ。いつものあなたはもっと優しいことよ。

 

男   そう、あなたの心が僕から離れてしまう前まではね。

 

女   ねぇ、照男さん、決して私はあなたを嫌いになったわけじゃなくってよ。私が今まで会った男の人の中では、あなたが一番好きよ。そしてもちろん愛してるわ。本当よ、信じて!

 

男   ―――

 

女   でもね、いざ結婚というと、ただ愛情だけでは成立しないと思うの。結婚というのは、女にとって一生の死活問題よ。女って、小さい頃からお嫁に行くときのことを考えているのよ。本当に女の半生はその時の夢を描いて過ぎてしまうのだわ。

 

男   分かるよ、その気持ちは。

 

女   あなた、それとも私をどこまでも引っ張って行ってくださる?

 

男   ―――

 

女   結婚する気で何処までも、何時までも?

 

男   ―――

 

女   あなたと結婚できるならこれ以上の幸せはなくってよ。

 

男   それができるくらいなら―――だめだ、自信がない。あぁ、欲しい、自信が―――

 

女   あなたがその気なら私はもちろん付いて行くわ。すべてをあなたに投げうつわ。

 

男   うむ、あなたを、あなたを離したくない!しかし―――くそっ!僕がもう五つも歳をとってればなぁ、どんなことしたってあなたを手放しはしないんだが―――残念だ―――毎日毎日あなたのことを考えない日はない。どんなに苦しいことがあっても、あなたのことを考えれば、ちっとも辛くはない。知らず知らずのうちにあなたは僕の支えになっていたんだ。どんな逆境にあっても僕にはあなたがいる。「あなたがこの世に存在する」ということさえ思えば、それで僕は救われてきたんだ。ところが―――あぁ、できることなら、このままずっとあなたと居たい、あなたと離れて僕の幸せなんぞ考えられない。しかし、あなた個人の幸せを思ったら―――迂闊な行動はできない―――あぁ、僕はどうしたら、どうしたらいいんだ!?

 

女   私の幸せ?私個人の幸せって何かしら? いいえ、あなたと離れて私の幸せは存在しなくってよ! やはり私もあなたから離れていくことはできないんだわ。どんな辛いことだってあなたと一緒なら乗り越えていけるわ、あなたの愛情さえ確かなら―――そうね、私、馬鹿だったんだわ。こんなにお互い信じあっているのに、他の人との結婚を考えるなんて―――照男さん、あなた怒ってる?

 

男   怒ってる?僕が? あ、さっきは僕も興奮してきついことを言ったかもしれないね。済まなかった。でもね、紀美ちゃん、今度は僕の方で、どうかもっと冷静になってください、と言いたいよ。熱に浮かされていてはいけない。もっと理性的にならくっちゃ。最初決心したように、あなたはその人と結婚するのが一番いいんだよ。そのうちに僕のことも忘れるさ。

 

女   あなたを忘れる? そんなこと絶対にありえないわー――あなたは私のこと忘れられるの?

 

男   絶対に忘れるもんか。でもね、それはそれでいいんだよ。さっきね、私はあなたのことを思ってさえいればどんな辛いことでも忘れられるって言っただろう? そうさ、それでいいと思うんだ。どんなに運命が我々を引き離そうと、人の考えまでも拘束することはできないはずだ。お互いの心が通じ合ってさえいれば、それでいいんだ、それでいいんだよ。

 

女   それでいいんだ―――って、こんなに愛し合っているにそれでもいいのかしら?

 

男   人の世の定めだろう―――おや、月に雲がかかった。月も僕らを照らすのが恥ずかしいのか、ハッハッハッ!(だがその笑いには力がない)

 

女   あのね、照男さん。

 

男   え?

 

女   あなた、私たちが最初に会った時のこと覚えている?

 

男   うん、覚えているさ―――ちょうど一年ほど前だったね。雨だったね。夜遅く中野の駅から僕がぐしょぬれになって家に急いでいると、あなたが前を歩いていた。構わず追い越そうとすると、「よろしかったらお入りになりません?」と声を掛けられたんだっけ。

 

女   あなた、しばらくもじもじしていたわね。

 

男   うん、まだ初心だったのかな?

 

女   あの時はあなたはまだ夜学へ通っていて、その帰りだったのね。

 

男   そう。それから二人して黙々と歩いた。この親切な女性はどんな人かと顔を観たかったけど恥ずかしくてできなかった。そして曲がり角まで来た。僕の家はそこから右に曲がるのだ。そこで礼を言って走り出そうとしたのだが、あなたはわざわざ僕の家の前までついてきてくれた。そして別れの挨拶の時、初めてあなたの顔を見た。それ以来、僕はあなたのことを忘れることができなかった。

 

女   そしてその次に電車の中で出会ったときから私たち、親しくお話しできるようになったのよね。

 

男   余程仲良くなってからのことだ。夜、二人して外苑を散歩したっけね。

 

女   えぇ、あの時のことは、絶対忘れないわ。

 

男   初めての経験だったね。木陰の枯芝の上に座って―――こうして抱き合い、そしてこうやって口づけを―――(腕を伸ばし女を抱こうとするが、ふと思い出したようにやめてしまう)

 

  ―――間―――

 

女   どうしたの?急に黙ってしまって。

 

男   いや、何でもないよ。ただね、今更あなたをこの腕に抱いてみたところで、どうなるものでもないと思ってさ。

 

女   ―――

 

男   あなたは直に人妻となる身なんだ。あなたにとって僕はもう路傍の石でしかありえない。僕は静かに消えて行けばそれでいいんだ。今更思い出を語ったところで事情が変わるわけじゃないんだ。

 

女   あなたに、あなたに、どうか素晴らしい人が見つかるように祈るわ。

 

男   素晴らしい人? そうか、あなたはもう居なくなるんだっけ―――でも、あなたのほかに素晴らしい人っているのかな? あなたより優れた人って誰なんだ? あなただけさ、ぼくにとって素敵な人は―――他に居るもんか!

 

女   それは私にとっても同じことよ。あなたを措いて―――

 

男   悪かった、また興奮しちまって! 僕がそんなことを言い出したら、あなたはますます離れにくくなるばかりだろう。いけない、いけない。

 

女   いつまでも、いつまでも、離れたくないのに―――

 

男   僕だって勿論さ。あなたと別れたら、しばらくは山などやたら回って自然の美を求めることにするよ。それを生き甲斐とするさ。

 

女   他に女の人は?

 

男   お願いだからそのことだけはもう言わないでくれたまえ。もう僕には他の女性を愛するだけの気力は残っていないよ。僕の愛はあなたにすべて捧げてしまった。もう、何も残ってやしないんだ。また、僕の心に新しい愛が芽生えてくるまでには、相当の時日を要すると思うよ。でも、ま、それはそれでいいのさ。我々二人はそういう宿命にあるのだろう。

 

女   私、本当にどうしたらいいか分からなくなってきたわ。

 

男   まだそんなこと言ってるの? (お道化て)分からず屋さん、いい子だから僕の言うことを聴きなさいね。

 

女   うふ、言ったわね!

 

男   おや、笑ったね。今日初めて見せた笑顔だ。美しいね、やはり―――

 

女   嫌だわ、そんなに人の顔をじっと見るなんて。

 

男   失敬、失敬―――

 

  三人連れの若い女性、二人の前を通りかかる。二人急に畏まる。

 

女A  あの人たちの仲のいいこと、ご覧なさいよ。

 

女B  本当ね、うまくやってるわ。

 

女C  この夜で自分たちが一番幸せって言うばかりに。

 

  三人退場

 

男   今の人たちの言った言葉、聞こえた?

 

女   えぇ。

 

男   知らない人は勝手なことを言っている。

 

女   でも、私たち、やはり幸福よ。

 

男   え、なぜ?

 

女   たとえ短い間ではあっても、私たち、本当に信じあい、心から愛しあうことができたのよ。純粋で立派な恋愛だったと思うの。世の中で私たちほど清い、しかも強い恋をしたっていう人たちって少ないと思うわ。私、それを誇りとしてよ。結婚してからも夫に堂々と話すことだってできるわ。私たち、人生の一番大事な時を過失なく、しかも実に楽しく乗り超えることができたのよ。どう?素晴らしいことだったとは思わない?

 

男   うむ、確かにあなたの言うとおりだ。僕たちほど幸せな者はいないやね。確かにそうだ。

 

女   これもすべてあなたのお陰だわ。感謝してるわ。

 

男   とんでもない!僕のお陰だなんて。君、いや、あなたが良かったんだ。素晴らしかったんだ。僕には過ぎた人だったんだ。

 

女   「分からず屋」さん!ウフフ―――

 

男   しまった。さっきのお返しか。でも僕の言ってることは真実だよ。それは間違いなしさ。

 

女   でもね、照男さん、女ってね、弱いもんなのよ。いくら強い心を持っているようでも、男の人の出方ひとつでどうにでもなってしまうのよ。ところが、あなたは私の心を乱さなかったばかりか、かえって私に強く生きることを教えてくれたわ。あなたの愛情によって私の心が育まれたのよ。ほんとよ、あなた自分自身にもっと自信を持っていいわ。いえ、持たなければだめよ。

男   自信か?―――うん、確かに―――でもね、この虚偽と矛盾にあふれた社会の中で強く生き抜くなんてこと―――ちょっと難しいね。

女   さ、それだからこそ、その自信が必要なのよ。あなたのその純真な心、いつまでも持ち続けて頂戴!忌まわしい社会の中にあって、いつかは一点の光となって輝く日が来るに違いないわ。世の中の悪に染まって堕落していく人、その人たちは心の弱い人たちなのよ。哀れで気の毒な人たちなのよ。その中にあって、あなたのような人たちが大勢増えて行くことができれば、それに刺激されて、段々と社会も救われていくんじゃないかしら。

男   困ったな、そんな風に言われると―――とにかく強く生きていくことは誓おう!あなたを失うという不利はあっても―――ひとりだけでか―――(ため息をつく)

女   そうね、あなたにはやはり心の糧になる人が必要なのね。

男   そうかもしれない。今まではそれがあなただったんだ。

女   やはり、私は―――

男   やはり?

女   私はやはりあなたから離れていくべきじゃないのね。

男   えっ!? いけない、また蒸し返しになっちゃった。そんなつもりで言ったんではないんだ。

女   そう―――

 ―――間―――

男   あのね、僕の決心はついたよ。もうあなたがいなくても大丈夫と思う。あなたの存在に代えてあなたとの思い出を心の糧としよう。ね、それならいいでしょう?

女    私に対する遠慮からそんなことを言うのでしょう?

男   いや―――うん、それもあるかもしれない。だけどね、僕は割り切ったんだ。生者必滅、会者定離って言うじゃないか。あなたとのことは僕の人生において貴重な経験だった。この経験の上に正しい認識が生まれると思うよ。それだけでも、あなたの言うとおり、素晴らしいことなんだ。ね、お互いに割り切りましょう! あなただってさっきはそう思ったはずじゃないか?

女   私たち、また会えるかしら?

男   機会があればね。

女   機会があれば?

男   そう。わざわざ約束してあったりするのはよすことにしましょう。そんな時は、お互いの理性が情熱に負けてしまう時だ。

女   そうかしら?私はそうは思わないわ。お互いの心さえしっかりしていれば。

男   そうかなぁ、僕は危険だと思うよ。今夜、これで別れてからも、お互いに僕はあなたのことを、あなたは僕のことを思ってやまないでしょう。そんな時にまた会ったりしたら、抑えに抑えていたものが爆発しないと誰が約束できますか? お互いを忘れるためには時しかない。いつか時間がすべてを忘れさせ、解消してくれると思います

女   ―――

男   僕だって会いたいのは山々だ。だけど、ここははっきりと踏ん切りをつけなければーーーあなたの幸せを祈ります。

 男、くるりと背を向け歩きだす

女    あら、照男さん、もう行ってしまうの!?

男   (振り向いて)えぇ。

女   照男さん、本当にもう会ってはくださらないの?

男   えぇ、そうです。

   (泣き出す)ひどいわ、ひどいわ!

男   泣かないで、紀美ちゃん! あぁ、紀美ちゃんと呼べるのもこれが最後だろうーーーさぁ、顔を上げて、笑顔で別れましょう。僕たちは元来ウエット過ぎたんだ。最後くらいさっぱりとドライにいきましょう。

   (泣き止まない)

  通行人、数人、じろじろと二人を見ながら通り過ぎる

男   ほら、人が見てる。みっともないじゃないか。

女   構やしないわ!

男   分からず屋さん、泣くのをおやめなさい。

女   なんとでも仰い、冷たい人!

男   罵りたければいくらでも罵るがいい。僕だって辛いんだ!僕だって泣きたいんだ!くそっ!どうして僕はこう情に弱いんだ!

女   ―――

男   えぇい、冷たいと恨まれてもかまわない、もう帰ります!

女   せめて最後に食事でも―――

男   いいや、いけません!また蒸し返しになるだけです。

女   どうあっても?

男   えぇ、どうあってもーーー

女   悲しい思い出になってしまうわ。

男   ―――

女   ねぇ、照男さん、私―――

男   (遮って)お別れです。さぁ(手を差し出す)

女   (躊躇いながらも、手を伸ばして握手する)

男   さようなら。(スタスタと歩きだす)

女   あっ、照男さん!

  男、振り返り、しばし両人、見つめあう。

  ―――間―――

  突然、二人は走り寄り、ひしと抱き合う。

男   僕は、僕は、あなたが大好きだよ!

女   私も、私もよ!たまらなく好き!

  しばし二人とも抱き合ったまま無言

男   (抱いていた腕を外し)身体を大事にね、サヨナラ。

  男、走り去る。

女   あぁ、やっぱり行ってしまったわー――

 女,呆然と立ち尽くす。

                                  ―――幕―――