2000年の6月13日から1週間、中国の「ウルムチ、トルファン、敦煌と古都・西安への旅」(A旅行社ツアー)に参加しました。
当初は、E旅行社の10日間のコースに申し込んでいたのですが、一部の申込者がドタキャンしたため、催行に至らず、やむなくこちらのコースに鞍替えしたものです。参加者が15名と少ないのも気に入りました。
敦煌やトルファン、ウルムチの各都市は、漢・唐時代のシルクロードの要衝で、仏教伝来の道でもあり、古代遺跡も多く、短期間ながら、内容豊富な旅でありました。
本ツアーでは、約2000年前よりシルクロードの拠点として栄えた敦煌(世界遺産・莫高窟千仏堂のほか、漢時代の遺跡・玉門関、陽関、漢代長城、河倉故城と鳴沙山、月牙泉等の見学)をスタート地点として、ウィグル族の街トルファン(三蔵法師も立ち寄った高昌故城や交河故城、新彊イスラム建築様式を代表する蘇公塔、西遊記にも出てくる火焔山、ミイラの眠るアスターナ古墳群、地下水路などの見学)から、新彊ウィグル自治区の省都ウルムチ(楼蘭美女のミイラで有名な新彊ウイグル自治区博物館や紅山公園等見学)を訪ね、最後に古都・西安(世界遺産・兵馬俑坑と秦始皇帝陵、楊貴妃ゆかりの華清池、シルクロードの出発点である西の城門、大雁塔等見学)の4都市をめぐりました。
以下、写真を交え、主な見どころをご紹介しましょう。(枠のある写真はクリックすれば拡大できます)
第1日目は、午前10時に成田を発ち、西安の咸陽国際空港にはちょうど4時間のフライトで、午後1時(日本時間午後2時)5分に到着しました。
入国審査後、国内便で、15時15分に出発、敦煌空港に降り立ったのは18時30分でした。
明くる6月14日、さあいよいよ敦煌の観光です。敦煌は、甘粛省西端に位置するオアシス都市で、漢代における西域最前線の軍事拠点だったところで、その後、西夏、吐蕃による占領など興亡の歴史を繰り返しつつ、東西文化の交差点として発展してきたそうです。
まずは莫高窟へ。莫高窟は数ある敦煌遺跡のなかでも最も著名な遺跡で、市内の南東25km、鳴沙山東端の断崖に開墾された大石窟です。
北涼期(5世紀前半)以来、北魏、隋、唐、五代、元と開墾されてきたため、各時代による窟の構造、彫刻様式、画題などに相違が見られて興味深く、まさに仏教芸術の精粋が一堂に連なる「砂漠の大画廊」と称されるのも宜なるかなと感じました。
左下の乾いた砂の壁に朱色が映える楼閣は、莫高窟のシンボル九層楼(第96窟)で、この中に高さ34.5m、幅12.5mの弥勒大仏が納められています。
右下の写真は、第45窟内の肉感豊かな菩薩・阿難・天王塑像で、盛唐時代の作品だそうです。
さて、夕刻は鳴沙山、月牙泉の観光です。鳴沙山は敦煌の南約5kmに位置する、東西約40km、南北約20kmに亘る広大な砂の峰で、その名は、一定の状況下で砂山を人が滑り降りると、地響きのような音を立てることに由来しているそうです。
右の写真、拡大してみてください。砂山に木の階段が付いているのがお分かりでしょう。砂に足を取られてとても登れないので、観光客用に取り付けてあるのです。
ちょっと見たところでは低そうですが、結構高いんですよ。
私も最初は大したことはないと登り始めたのですが、半分も行かないうちから、息は切れるわ、股が張るわで、苦しくなり、よっぽどリタイアしようかと思ったほど。それでも何とか登り切ったときの達成感は格別なものがありました。
旅程3日目は敦煌郊外にある河倉故城、漢代長城、玉門関、陽関など、漢代の遺跡巡りを楽しんだ後、夜行列車でトルファンに向かいました。
左下の写真が玉門関で、ここは漢代の国家権力が及んだ西端とか。現在の玉門関は小方盤城と呼ばれ、25km四方に高さ約10mの城壁が残っていました。
右下は陽関で、古代の重要な関所跡です。今はただ漢代に造られた烽火台が高台の上に朽ちた姿で残っているだけですが、その茫洋たる風景は、かつてのシルクロードの歴史を彷彿させるものがありました。
さて、いよいよ旅も佳境に入り、今日は中日の4日目。終日、火焔山、高昌故城、アスターナ古墳群、蘇公塔、交河故城、カレーズなど、トルファン市内及びその周辺をめぐりました。
トルファンは、古くはシルクロードの天山南路・北路を連絡する要衝の地で、現在でも鉄道幹線の分岐点として栄えていますが、気候は高温、乾燥のうえ、風が強く、住みづらいようです。事実、我々が訪れたときも、40度を超える暑さに辟易しました。また、日本では雨が降ると、人々は雨を避けて屋内に入りますが、この辺の人は、逆に雨を求めて、外に飛び出すそうです。
左下は、西遊記にも登場する火焔山の写真で、トルファン盆地の中部に横たわる東西100m、南北10km、海抜500m(最高851m)の山地です。地殻の褶曲運動によってヒダの入った赤い山肌が、夏場になると地表から立ち上がる陽炎によって燃えているように見えることからこの名があるそうです。
右下の写真は、トルファン市街から、西に約10km先の、2つの川が交わる高台にある城址遺跡で、交河故城と呼ばれています。現存の遺跡は唐代以降とのことですが、南北に約1kmにも及ぶ広大な遺跡で、この中を40度を超す暑さの下、1時間余をかけて歩いたのですから、たまったものではありませんでした。面白いことに、この遺跡のなかの通路は日本の援助で整備されているとのことでした。
翌5日目は、高速道路を走って、ウルムチに向かいました。標識などは日本の方式を真似したとあって、3時関余の移動は全く違和感のないものでした。
ただ、ウルムチに近づき、車窓からその市街を見たとき、驚きました。何だ、これはニューヨークの摩天楼そっくりではないか。全く、ウルムチといえば、西最果ての辺境の地というイメージでいたものですから、まさかこんなに高層ビルの林立する近代都市とは思ってもいませんでした。今や外資による建設が進み、人口も150万を超える大都市であります。百聞は一見に如かず、ですか。
左の写真は、ウルムチの中心地に位置する、標高934.4mの紅山公園から眺めたウルムチ市街の景観です。
さて、翌6日目の午前中、国内便で西安に戻りました。3時間15分のフライトでした。
この日の午後と翌7日目の午前中が西安市内の観光となり、秦俑博物館、秦始皇陵、華清池、安定門(西門)、大雁塔(慈恩寺)などを回りましたが、ハイライトは何と言っても世界遺産の兵馬俑で名高い秦俑博物館でした。
1974年に井戸を掘っていた農民によって偶然に発見された兵馬俑は、中国初代皇帝である始皇帝の陵墓を守る陪葬物として造られた兵士や馬の焼き物人形ですが、兵士像は平均身長178cmと等身大であるうえ、顔の表情も一体づつ微妙に異なるという懲りようで、いかに莫大な労力が注ぎ込まれたかを物語っています。
博物館は1号坑、2号坑、3号坑、秦銅車馬展覧館などの部分から構成されていて、それぞれの展示区域ではそこから出土した兵馬俑をそのままの姿で見ることができます。
下の写真はいずれも1号坑のものですが、イメージを感じ取っていただければ幸いです。
以上ですべての日程を終え、6月19日の13時37分に西安の威陽国際空港を飛び立ち、中国西域シルクロードのオアシスの街々をめぐるロマンの旅に終わりを告げました。
<旅行余聞>
今回4つのホテルに泊まりましたが、いずれも申し分なく、快適に過ごすことができました。すべてのホテルに使い捨てスリッパの配備があり、殆どのホテルにドライヤーあり、更にはウルムチのホテルにはガウンが、また西安のホテルには、パジャマまでありました。
食事の時は、どこのレストランでも必ずビールが付き、紹興酒も時々付いたので、飲み代が助かりました。
最後に、あるご老人をご紹介しましょう。左下の写真で、向かって右のお方です。場所は秦俑博物館内の陳列館(土産物売場)の中です。お名前は楊志発さんといいます。さて、誰でしょうか?
そう、この人こそ、誰あろう、兵馬俑の発見者なのです。今は高齢のため、農業を引退し、こうして毎日ここに座り、写真集などを買った人にサインをしてくれているのです。
私も早速に絵はがきを買い、サインしてもらいました。右の写真がそのサインです。
以上、駆け足の旅行記でしたが、シルクロードの魅力の一端でも感じ取っていただければ幸いです。