(2001.4.6〜15)
幻のように消えたカルタゴの夢の跡。雄大なサハラ砂漠に散らばる緑のオアシス。地中海の鮮烈なブルーがまぶしく輝く、世界が憧れた北アフリカの豊かな大地。ロマン溢れるチュニジアの旅。
21世紀最初の海外旅行、どこにしようかと迷った末、ちょうど昨年の同じ時期にモロッコへ行っているので、地中海沿岸でアルジェリアを挟んでお隣のチュニジアに行くことにし、馴染みのE
旅行社(17回目)のツアーに参加しました。
今回も締め切り直前に、参加者が少ないのを確認のうえ申し込んだため、15名のグループで、和気藹々とした旅となりました。
チュニジアはアフリカ大陸北部の地中海沿岸にあって、アフリカとイスラムとフランスが美しく調合された国です。青と白の地中海世界とサハラ砂漠という自然のコントラストが鮮烈で、その中に古代と現代が同居している、チュニジアとはそんな感じの国でした。
旅のルートは左図の通りです。
ちょっと地名が鮮明でなく、見難いかもしれませんが、追々本文の中でフォローしてまいりますので、ここでは、チュニジアがアルジェリアとリビアに挟まれた国であることと、凡そこういうルートで回ったと言うことだけを理解していただければ幸いです。
なお、右上に見える島はシシリー島です。
第1日目
4月6日、成田空港をAF-289便で22.14に飛び立ちました。往路の夜行便は11年前のニュージーランドへ行ったとき以来でした。機内ではよく眠れないので、避けてきましたが、今回は仕方なくといったところです。
搭乗券を受け取ったとき、座席番号が「29E」となっていましたので、中央の列の4人掛けの2番目と覚悟していましたが、幸いエールフランス機は、他の航空会社と異なり、Dが欠番で、したがってE席が通路側でしたので助かりました。何しろトイレが近いもので、その都度、人の膝の前を通るのは、お互い辛いのです。
搭乗時間が長かったせいか、しばしまどろめたのは幸いでした。
第2日目
4月7日、パリでAF-2584便に乗り継ぎ、9.31(日本時刻では17.31)、チュニス・カルタゴ国際空港に到着、直ちに観光に出発しました。
最初に訪れたのは首都チュニス郊外にある、地中海を見下ろす丘の上に佇む町、シディ・ブ・サイド。16世紀、スペインからレ・コンキスタ(国土回復戦争)で追われたアラブ人が造った町で、地中海の青、空の青、ドアや窓の青(チュニジアン・ブルー)、そんな3種の鮮やかなブルーのコントラストが石畳の路によく映え、その美しさに惹かれ、フランス植民地時代には、パウル・クレー、ボーヴォワール、アンドレ・ジイドらがこの地を訪れたそうです。
そして現在では、「街並保存区域」に指定されるほどのチュニジア有数の観光地になっています。
まずは最初の観光地とあって、記念に撮ったのが右の写真です。(以下、枠のある写真はクリックすれば拡大できます。)
左の写真はカイラワンに行く途中で立ち寄ったザグーアンの水道橋の一部です。
創建は2世紀のハドリアヌス帝時代で、水源地のザグーアン山(海抜約1300m、チュニジア第2の高峰)からカルタゴまで全長132kmにわたり一日300万リットルの水を供給したと言う。
文字通り世界最長の水道で、地下に潜ったり地上に出たりしているが、写真のように地上の「橋」の形をしている部分は17kmとのことでした。
夕方、カイラワンのホテルに着き、小憩後、夕食前にメディナ(旧市街)を散策し、この日の観光を終えました。
第3日目
まずは午前中カイラワン市内の観光に向かいました。
カイラワンはチュニスの南約165km、周囲をオリーブ畑に囲まれた内陸部に位置し、イスラム世界では、メッカ、メディナ、エルサレムに次いで、第4の聖都といわれているところで、町全体が世界文化遺産に登録されています。
右の写真は、北アフリカ最古で最大のスケールを誇るグラン・モスク(正式名称はシディ・オクバ・モスク)で、中庭を囲む回廊の列柱はビザンチン遺跡から流用されたものだそうです。
ミナレット(塔)の高さは31.5mあり、最下段部分は728年造で、イスラムでは最古とのこと。残念ながら、イスラム教徒以外は建物内に入れませんでしたが、反対側の礼拝堂の入口からはメッカの方向を示す窪みが垣間見られました。
そのほか、ここカイラワンでは、現在も市民の水源になっているアグラブ朝の貯水池、モハメッドの同志の聖者アブ・ザマエル・ベラウィが眠るシディ・サハブ霊廟などを観光し、ネフタへと向かいました。
途中、カイラワンの南西約100kmにある、チュニジアで一番新しいローマ遺跡、スフェトゥラに立ち寄りました。この町は7世紀の半ばにビザンティン帝国によって拡張工事がなされてすぐに、アラブ軍に追い出されたという経緯があります。
見どころは豊富で、ディオクレティアヌス帝の凱旋門に始まり、オリーブ製油機、貯水池、神殿群、教会、大衆浴場、劇場など、当時の模様を彷彿しつつ見て回りました。
左のスケッチはツアーメンバーの一人、黒沢朗氏の手によるもので、神殿群のひとつ、ミネルバ神殿を描いたものです。僅かな時間で書き上げるなんて、うまいものでしょう。才能のある人は羨ましいですね、全く。
夕方、ネフタに着きました。町は傾斜地に段上に造られ、ブルギバ元大統領が好んで泊まったといわれるホテル・サハラ・パラスが我々のホテルでした。丘上にあるこのホテルのベランダからは、「ネフタの花かご」と呼ばれる豊かで美しいオアシスが見渡せ、更にその彼方には見事なナツメヤシの帯が流れ、広大な砂漠へと続く。そう、この町は砂漠の入口なのでした。
第4日目
本日は、ツアー用の大型バスではなく、終日、列車及び5台の4WDに分乗しての観光となり、まずはメトラウィ駅へと車で向かいました。
右の写真は、レザー・ルージュ(赤いトカゲ)と呼ばれるメトラウィからセルジャ渓谷を奥へと進む観光列車で、片道約45分かけてグランド・キャニオンのような雄大な渓谷をするすると通り抜けていく。途中2回列車は止まるので、その都度降りて新鮮で雄大な景色をゆっくりと堪能することが出来ました。
セルジャ駅からは再び4WDに乗車し、タメルザ峡谷に向かい、独特の神秘的な雰囲気に包まれた山岳オアシスの3村(シェピカ、タメルザ、ミデス)を観光しました。
特にミデスはアルジェリア国境まで1kmの地点にあって、「チュニジアのグランド・キャニオン」と呼ばれるほどに際だった渓谷美を呈し、映画「イングリッシュ・ペイシェント」のロケ地にも使われています。
夕方からはサハラ砂漠を疾駆し、左の絵のように、急坂を降ってみせるなど、時折、ヒヤリとさせられました。
そして、18時53分、砂丘から水平線に沈む、待望の夕日をカメラに納めることが出来ました。(右写真)
以上、本日は、渓谷、オアシス、砂漠と、チュニジアの大自然満喫デーでありました。
第5日目
朝、ホテルを出発し、隣町トズールのオアシスの中程ににあるサハラ動植物園に行きました。
小規模ながら、植物園では、アスパラガス、ハイビスカス、ヘンナ、ジャスミン、ユッカ、バナナなど他種類の植物が見られ、動物園には、砂漠地帯に生息する蛇やトカゲ、サソリなどの爬虫類のほか、ライオンやガゼルなどの哺乳類もいました。時折ショーもあり、ラクダのコーラ一気飲みや、タバコの箱を攻撃する蠍、愛し合うつがいの蜥蜴など、滑稽で楽しいものでした。
トズールを出発してバスは南西に一路ドゥーズへと向かう。途中の町ケビリまでは55kmに及ぶショット・エル・ジェリドという塩湖の中の一本道に入ると、まるで粉雪が舞った砂の海のような風景が地平線まで続く。砂に混じった塩の結晶はクリスタルのように光り、湖を僅かに湿らす水は淡いブルーやピンクに彩られ、そんな荒涼としていながら陽炎のようにゆらめく蜃気楼など幻想的な世界が広がっていた。
ケビリの町で我々のバスがタクシーに接触し、40分ほど待機させられるハプニングはありましたが、13時過ぎ、どうにかドゥーズに到着、観光用にしつらえた遊牧民(ベドウィン)のテントで昼食をとった後、 サハラ砂漠をラクダに乗り、往復およそ40分散策しました。
ラクダに乗ったのは、エジプト、インド、中国に次いで、4回目でしたが、何回乗っても決して乗り心地のいいものではありませんね。特にラクダかしゃがんだ状態から立ち上がるときとその逆に立った状態から、しゃがみ込むときは急角度に身体を曲げるので、振り落とされないようしがみつくのに必死でした。それと坂を上り下りするときもやはり注意が必要でした。
その後、一路マトマタへ向かい、途中、ユニークなベルベル人の穴倉住宅を見学後、17.30.無事マトマタのホテルに着きました。
第6日目
4月11日、朝8時にホテルを出発、東岸の幹線道路を北上し、スースへと向かいました。
途中、人口80万を擁するチュニジア第2の都市スファックスで下車、メディナを散策観光後、昼食をとりました。
右の写真は、次に訪れたエル・ジェムの円形闘技場(コロセウム)で、世界遺産に登録されているものです。西暦230年にゴルディアヌス帝によって創建されたもので、当時の町の名前はティスドルスといい、オリーブ貿易で栄えた大都市だったそうです。
サイズは縦149m、横124m、高さ36m、アリーナの直径65m、収容人員3万5千人で、世界で3番目の大きさを誇っています。またチュニジアにある25のコロセウムのうち最も保存状態がよく、今でも毎年夏にはここで民族舞踊や歌、劇などのフェスティバルが開催されるとか。
なお、ここは、7世紀末に中東から攻め込んできたイスラム・アラブ軍と先住民ベルベル人との最後の決戦の場となったことでも知られています。
夕方、チュニジア第3の都市(人口35万)スースに着き、ここでもメディナを散策観光後、郊外のポート・エル・カウンタイのホテルに宿泊しました。
第7日目
朝、チュニスに向け出発しました。
途中、焼き物で有名なナプールでは陶器工房で陶器造りの見学および中心街の散策。ここナプールは16世紀にスペインから逃れてきたアンダルシア人(イスラム教徒)がここに定住し、緑や黄色の上薬を使った高技術な陶器造りを伝えたことにより活気を見せ始めた町で、チュニジアの焼き物といえばナプール焼きに尽きるとのこと。なるほど、町中には陶器店が軒を連ねていました。
次に立ち寄った町は、その美しい海岸線で作家のアンドレ・ジイドや画家クレーなどの多くの芸術家たちを魅了してきたハマメット。ここは西暦179年にローマの植民市として建設されたところで、その後、ヴァンダル、ビザンチン、アラブ、ノルマン、スペインなどの異民族による侵略の歴史を経て、フランス植民地時代の1920年代、ヨーロッパ人がリゾート地として開発した町で、メディナ内は白い壁と青い窓に彩られ、美しいビーチ沿いにはリゾートホテルが立ち並んでいました。
14.30.首都チュニスに戻ってきました。
ここチュニスは、人口200万を擁するチュニジアの首都で、7世紀に建設が始まり、9世紀のアグラブ朝のとき、城壁で防御された都市となったそうで、町は、13世紀にイスラム都市として栄華を極めた旧市街と、そして19世紀後半、フランス保護領だった時代に建設された西洋的な新市街との、二つの全く異なる世界が同居しています。
着後、官庁街からメディナに入り、散策観光後、夕方ホテルに着き、この日の観光を終えました。
なお、メディナについては、チュニスを含め数都市で内部を散策しましたが、モロッコのフェズやマラケシュのように喧噪に溢れた迷路のようではなく、比較的静かなうえに、路地が直角に交差しているので、初めて入った者でも方向感覚を失うような心配はなく、逆にそれだけインパクトは低いように感じられました。
第8日目
朝7.30、チュニスから西へ約140km、アルジェリア国境近くにあるブラ・レジアに向かいました。麦やオリーブの生い茂る丘陵地帯を行くこと約2時間半、10時ころ目的地に着きました。
ここブラ・レジアは、紀元前4世紀ヌミディア王国の時代から、ローマ、ビザンチン帝国の時代まで栄えた都市遺跡で、床一面に施された精緻なモザイクが残る地下遺跡は世界でも稀有とのこと。
この地方は、夏の暑さが特に厳しいため、当時の人々は夏季は涼しい地下に、冬季は1階に移って生活していたそうです。
左の写真、数あるモザイクのうちのひとつです。きれいでしょう。どうぞ拡大してご覧下さい。これが2世紀に造られたというのも驚きですが、その保存状態のよいのにも驚きました。
ブラ・レジアから更に南西約70kmにあるドゥッガに向かい、着後昼食をとり、ここでも遺跡を見学しました。
ここドゥッガ遺跡は、アフリカを代表するローマ遺跡で、世界遺産にも登録されており、4世紀には人口1万を数えるほどの繁栄ぶりだったそうです。19世紀までアラブ人が住んでいたため、保存状態もよく、また規模の大きさにも目を奪われました。
右の写真はドゥッガのシンボルキャピトル(ユピテル、ユノー、ミネルヴァの3神を祀る神殿)を西(横)側から撮ったもので、神殿前面の柱廊玄関の高さは8mあり、6本のコリント式の円柱に支えられています。
遺跡内を約1時間半かけて見学後、再び2時間バスに揺られて、チュニスのホテルに戻り、最後の晩餐を楽しみました。
第9日目
4月14日、今日は観光最終日、近郊にあるカルタゴに出発です。
かつてカルタゴはフェニキア人により海上貿易や農業を中心に栄え、BC146年、ローマとの戦い(第3次ポエニ戦争)に一旦は破れ、破壊されたが、その後ローマの植民市として復興したため、数々のローマ遺跡が残り、世界遺産に登録されています。
ローマ人は征服都市を破壊することは普通しなかったそうですが、カルタゴだけは3次に亘るポエニ戦争でさんざん苦しめられたため、その憎悪の念からここだけは跡形もなく破壊してしまったとか。
左の写真は、ビュルサの丘にある唯一のカルタゴ遺跡ということで、非常に貴重なものです。
遺跡見学後はカルタゴ博物館に入り、数々の出土品を見学後、チュニスに戻りました。そして街なかで最後の午餐後、モザイクタイルのコレクションで世界一を誇るバルドー博物館に入り、これが本ツアー最後の観光となりました。
これで観光日程をすべて終了し、チュニス・カルタゴ国際空港を、AF-1285便で18.46に離陸、帰国の途につき、乗り継ぎ地のパリには、22.09(チュニジア時刻21.09)に着きました。
第10日目
4月15日午前1.35,AF-274便にて、パリの空港を飛び立ち、同日19.32.無事成田空港に着陸、帰国しました。
スタッフ
ここで、我々15名の世話をしてくださったお二人を紹介しましょう。
左写真の左側の若い女性が、添乗員のS.S さんで、なかなか機知に富み、気配りの行き届いた人で、誰からも不満は出ず、おかげで、快適な旅を楽しむことが出来ました。特にE旅行社独特の毎日記録して渡してくれる旅日誌は秀逸で、これまでにない多彩な内容のもので、実に有り難かったです。ちなみに本編で使った4WDが坂を下る場面とラクダの絵は彼女が旅日記のなかで描いてくれたものです。
さて、右写真の髭の男性は、今回のスルー・ガイドのRedha氏で、45歳前後でしょうか。最初のうちはとっつきにくい感じでしたが、どうしてなかなかユーモアに富み、通りのいい声で、はっきりとした英語をしゃべるので、非常に聴きやすく、次第に声を交わす仲になり、クイズを出し合ったりして、楽しい思い出のひとつとなりました。
以上、相変わらずの拙い旅行記でしたが、何らかのご参考になれば幸いです。
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