トルコの概況
I プロローグ
トルコ Turkey 西アジア北西部の共和国。正式国名はトルコ共和国。アジア西端のアナトリア(小アジア)と、ヨーロッパ、バルカン半島南東端の東トラキアからなる。北は黒海に、南は地中海、西はエーゲ海に面する。第1次世界大戦後に崩壊したオスマン帝国から1923年に建国され、以降、民主政治がおこなわれてきたが、80年に軍事政権となり、83年末に民政に移管された。面積は77万9452km2。人口は6456万6511人(1998年推計)。首都はアンカラで、最大都市はイスタンブール。
II 国土と資源
アジア側のアナトリアは、地中海と黒海にはさまれた地域で、ボスポラス海峡をへだてて東トラキアと対する。ヨーロッパ側にある東トラキアは、国土の約3%を占める。トルコの土壌は比較的肥沃(ひよく)で鉱産資源も豊富だが、たびたび地震になやまされている。
1 地形
国内の地形は、大きく7つの地域にわけられる。1つ目はマルマラ海周辺と東トラキアの地域で、中央平野部は肥沃で水量も多く、4分の1以上が農地になっている。東部には標高2543mのウル山がある。2つ目はエーゲ海と地中海に面する沿岸地域で、ここは山がちで狭く、土地の5分の1しか農業に適さない。東端のチュクロバ平野は綿花の産地である。3つ目の黒海地域は、海面から直接山岳地域へとつづいており、斜面は急で、全体の16%しか農地になっていない。
4つ目のアナトリア西部は、不連続な山と谷とでエーゲ海と中央アナトリア高原をわけている。5つ目は中央アナトリア高原で、国内でもっとも広く周囲は山でかこまれている。最高地点はエルジヤス山の3916mである。6つ目の東部山地は、国内でもっとも山が多く、あれた地である。聖書でノアの箱舟(→ ノアの洪水)が漂着したとされるアララト山が最高点で、5137mある。東部に広がる山地は、ティグリス川とユーフラテス川の水源となっている。7つ目はアナトリア南東部地域で、南以外の三方を山でかこまれた高原である。この地は「肥沃な三角地帯」の一部で、古代から重視されてきた。
2 河川と湖沼
河川のほとんどは流れがはやくて航行しにくく、乾季には水がなくなるが、いくつかの川は水力発電に利用されている。国内最長の川は黒海にそそぐクズルウルマク川である。ティグリス川とユーフラテス川は東部からペルシャ湾にながれこんでいる。国内最大の湖は東部にあるワン湖で、中央アナトリアにあるトゥズ湖と同じように塩分が強い。真水の湖は南西部に点在する。
3 気候と植生
地中海とエーゲ海沿岸地域の気候は、長くて暑い夏と、あたたかくて雨の多い冬が特徴的である。ボスポラス海峡対岸のイスタンブールの平均気温は、1月で3〜8°C、7月で18〜28°C。年降水量は平均810mmで、10〜3月がもっとも多い。オリーブ、柑橘類、ブドウ、綿花などが栽培されている。中央アナトリア高原は、海岸地域より夏が暑く、冬に寒い大陸性の気候である。この地域にある首都アンカラの平均気温は、1月で-4〜4°C、7月で15〜30°C、年降水量は約360mmである。高原には草原や穀物畑が広がっている。
東部山地の冬は、比較的長くて寒い。牧畜がおこなわれ、標高の高い所では高山植物が自生する。黒海沿岸地域の気候は穏やかで雨が多く、落葉樹の森がみられる。アナトリア南東部は、7月と8月の平均気温が30°C以上と、国内でもっとも暑い地域である。穀物が栽培され、乾燥地域では牧畜がおこなわれている。
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天然資源
トルコは世界で有数の鉱物産地で、石炭や鉄鉱石が豊富に採掘されるほか、クロムは世界でもっとも多く生産される。そのほか、ホウ素、ボーキサイト、磁鉄鉱、鉛、亜鉛、銅、銀など多種類の鉱物が採掘される。南東部では石油や天然ガスが産出され、国内の需要の一部をまかなっている。
III 住民
この地域は、古代からヒッタイト、フリギア、アッシリア、ギリシャ、ペルシャ、ローマ、アラブなど、さまざまな民族や文化の発祥の地とされている。現在のトルコ人の祖先は、11世紀に中央アジアからやってきて、イランで王朝をつくり、さらに一部がこの地に侵攻、ビザンティン帝国を征服して自分たちの国をたてた。
トルコ人は、自分たちの言語や文化を長い間にわたって先住民や、うつりすんできた人々に浸透させ、キリスト教からイスラム教への改宗をはかった。にもかかわらず、1990年代の現在、クルド人、ギリシャ人、アラブ人、アルメニア人、ユダヤ人など、この国の人口の20%を占める諸民族は、いまだに独自のアイデンティティをたもっている。
1 人口・言語・宗教
人口は6456万6511人(1998年推計)で、人口密度は1km2当たり83人/km2。1990年半ばでは約69%が都市部にすみ、イスタンブールと海岸地域の人口密度がもっとも高い。94年の統計では、イスタンブールが国内最大の都市で人口は802万3329人(1996年推計)、首都アンカラの人口は289万25人(1996年推計)。そのほか主要都市としてイズミル、アダナ、ブルサがある。
公用語はトルコ語だが、約10%の人がクルド語やアラビア語などを話す。
イスラム教がトルコの主要な宗教だったが、1928年以来国教ではない。99%がイスラム教徒で、5分の4がスンナ派、残りはほとんどが南東部にすむシーア派の少数派とされるアラウィー派である。キリスト教徒は約12万人、ユダヤ教徒は約2万人ほどいる。
IV 教育と文化
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教育
共和国が誕生したころは、非識字率が90%以上だった。共和国の初代大統領ケマル・アタチュルクはヨーロッパ式の教育を導入し、憲法ですべてのトルコ人が無料で初等教育をうけることを義務づけた。その結果、1990年には、成人の識字率は81%にまで飛躍的に向上した。
高等教育機関としてイスタンブール大学(1453年創立)、アンカラ大学(1946)、エーゲ大学(1955)、中東工科大学(1956)などがあるが、入学の競争率は高い。
2 文化
オスマン帝国のもとで盛んだったイスラム美術の伝統が、非宗教的で西洋的なものへとかわっていった。そのため現代のトルコ人の画家たちは、西欧の影響からはなれた、自由で独自の美術を創造するために力をそそいでいる。彫刻はあまり盛んではなく、現在つくられている記念碑は、アタチュルクや独立戦争にまつわるものが多い。文学は現代トルコ芸術の中ではきわめて活発で、ケマル・ターヒル、ヤシャル・ケマルなどが代表的な作家である。
イスタンブールやアンカラには、国立オペラ劇場など多くの文化施設がある。また、イスタンブールには、6本の光塔(ミナレット)をもつスルタン・アフメト・ジャーミー(ブルー・モスク)や、かつてビザンティンの教会だったハギア・ソフィア、16世紀の有名な建築家シナンがたてたスレイマン1世のモスクなど代表的な建造物が多い。スルタンの宮殿だったトプカプ宮殿は、現在では宮廷の宝物やムハンマドの碑文を展示する博物館(トプカプ宮殿博物館)となっている。
V 経済
1950年以降、トルコの工業部門は大きく発展しているものの、90年代初めでは、労働人口の半分は農業に従事している。政府は経済に大きな影響力をもち、いくつかの重要な工業を国営化している。90年代半ばの経済は、対外債務の増加と150%のインフレになやまされていた。その対策として、政府は自由化政策をすすめ、国営企業の民営化ペースをはやめ、政府系企業の生産物の価格をあげるなどしている。EU(ヨーロッパ連合)へのトルコの加盟はみとめられていないが、95年にはEUの関税同盟には参加することができた。
1990年代初めのトルコのGDP(国内総生産)は1189億ドルで、30%が工業、15%が農業、55%が国営と民間のサービス業である。国内の労働者は約2080万人で、48%が農林水産業、32%がサービス業、20%が工業に従事している。それにくわえ、130万人のトルコ人が、ドイツ、サウジアラビア、フランスなどの国外ではたらき、その送金は年間約310万ドルにのぼる。
1 農林漁業
1950年以来、農業の機械化や、化学肥料・改良種の導入で、農業の生産高はのびつづけている。トルコは、食糧の自給自足ができる世界で数少ない国のひとつである。多様な気候で、チャ(茶)などの作物もそだつ。90年代半ばの主要農作物は、コムギ、テンサイ、オオムギのほか、トマト、メロン、ブドウ、トウモロコシ、リンゴ、タマネギなど。綿花とタバコは主要な輸出品である。牧畜では、牛、ロバ、ヒツジ、ヤギ、スイギュウ、家禽(かきん)が多く飼育されている。
国土の26%は森林だが、その3分の1程度しか商業的価値はなく、林業はそれほど盛んではない。
漁獲物はそのほとんどが地中海と黒海でとれたものである。アンチョビーが多く、ほかにサバ、イワシ、ボラなどもとれる。
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工業と外国貿易
主要な工業は、繊維、食品加工、製油と石油製品、鉄鋼、製薬で、おもな工業地域は、イスタンブール、イズミル、ブルサである。
1995年のトルコの輸入額は425億ドル、輸出額は231億ドル、輸入が輸出を大きくうわまわっている。おもな輸出品は繊維、鉄、鋼鉄、乾燥果実、革製品、タバコ、石油製品で、輸入品は機械、原油、自動車、鉄、鋼鉄、化学製品など。おもな輸出相手先は、ドイツ(全体の25%)、イタリア、アメリカ合衆国、フランス、イギリス、輸入相手先はドイツ、アメリカ合衆国、イタリア、サウジアラビア、フランスなどである。観光業も大きな収入源となっている。
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交通
鉄道は総延長約1万413kmで、すべて国営化されている。道路の総延長は約5万9760kmである。
主要な港湾都市はイスタンブールとイズミルで、そのほか黒海沿いにトラブゾン、ギレスン、サムスンなどの港があり、南部にイスケンデルンとメルシンがある。おもな国際空港はイスタンブール、アンカラ、アダナ、アンタリヤ、イズミルにある。
VI 政治
第1次世界大戦(1914〜18)でオスマン帝国は敗北したが、戦後の連合国とギリシャによるトルコ分割の試みは、アタチュルクひきいるトルコ独立戦争に発展、1923年10月29日にトルコ共和国が建国される。24年には宗教裁判所が廃止され、34年には女性にも参政権があたえられるなど、近代化がすすんだ。46年に複数政党制が導入されて共和人民党が与党となったが、50〜60年は民主党にかわった。しかし、いずれも経済政策に失敗し、反政府デモが頻発するなど国内政治が混乱したため、軍部が進出。60〜61年に軍事政権が樹立された。
1961年には新憲法のもとで総選挙がおこなわれたが、多数を占める政党はなく、複数の小政党による政治がつづいた。70年代の経済不安と左右過激派の政治テロのため、80年に2度目の軍事クーデタがおき、憲法の停止と、議会と全政党の解散が断行された。82年11月に国民投票で新憲法が承認され、83年末に民政に移管された。
1 立法・行政・司法
1982年制定の憲法のもと、立法機関は一院制の国民評議会にあたえられ、550名の議員が任期5年で選出される。行政府の最高責任者は首相で、与党の党首がその座につく。国家元首である大統領は任期7年、議会でえらばれる。トルコは76の県にわけられており、内務官僚である知事によって行政がおこなわれる。都市では、市長や市議会議員が市民によって選出される。司法は議会で可決された法律を検討する憲法裁判所のほかに、多くの一般および軍事裁判所がある。
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政党と国防
1980年のクーデタで全政党が解散させられたとき、共和人民党の党首と公正党の党首は最低10年間は政治に関与することを禁止された。民政移管後の総選挙では、祖国党が83年と87年に2回つづけて与党となり、91年の選挙では正道党が政権をとった。95年の総選挙で第1党となったイスラム主義の福祉党は、98年2月に解党させられ、美徳党(1997年設立)が事実上の後継政党となっている。
1997年のトルコ軍の兵力は約63万9000人で、そのうち3万人はキプロスのトルコ支配地域に駐留している。20〜32歳のすべての成人男子に18カ月間の兵役が課せられている。トルコは国際連合とNATO(北大西洋条約機構)の加盟国で、EUの加盟準備国である。
VII 歴史
アナトリアにはじめてたてられた王国はヒッタイトで、前18世紀ごろに根拠地を中央アナトリア高原におき、鉄を武器に勢力をのばした。前13世紀にヒッタイトは最盛期をむかえたが、前12世紀末には小アジアやシリアに出現した「海の民」によってほろぼされた。海の民の一族であるフリギア人がたてた王国が、前9〜前8世紀にアナトリアの独占的勢力となる。この時期にギリシャ人がミレトス、エフェソス、プリエネをはじめ、エーゲ海沿いのイオニアに多くの都市をつくった。
その後リディア王国が出現したが、前6世紀半ばから、アナトリアをふくむ小アジアはペルシャのアケメネス朝の支配下にはいった。前4世紀になるとペルシャ勢力は弱まり、前333年ごろにマケドニアのアレクサンドロス大王に征服され、前2〜前1世紀にはローマ人に占領される。
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ビザンティンからイスラムへ
4世紀末にローマ帝国が分裂すると、小アジアはビザンティン帝国の一部となった。首都は、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に位置するコンスタンティノープル(旧ビザンティウム、現イスタンブール)におかれた。11世紀になると、イスラム教に改宗したトルコ系の王朝であるセルジューク朝が小アジアを占領した。彼らの目的はエジプト・シリアのファーティマ朝の脅威を排除することだったが、その後セルジューク朝に内紛がおこり、一部に独自の王国がたてられる。そのうちのひとつが首都をコンヤとしたスルタンの王国ルーム・セルジューク朝で、中央アナトリアを12〜13世紀の間支配した。
この王朝はバグダッドのセルジューク朝をまねてイスラム化をすすめた。しかし、住民にはローマ時代以来のキリスト教徒が多かったため、その統治法はほかのイスラム諸国とはひと味かわったものになった。それが13世紀末に出現したオスマン帝国の、異民族・異教徒を排除せず共存しながら支配するという独特の統治法の基盤となった。ルーム・セルジューク朝のコンヤは、1258年にバグダッドのアッバース朝がモンゴルのフラグの侵入にあって陥落すると、モンゴルの属国となったアナトリアの一部として、無政府状態がつづいた。ルーム・セルジューク朝の戦士だったトルコ人の武装集団は、各地にいくつも小国家をつくって割拠した。
2 オスマン帝国の台頭
オスマン帝国は、アナトリア北西部にあったビザンティン帝国の勢力に対抗するトルコ人小国家のリーダーとして出現した。その地理的条件を利用して、オスマン帝国の創始者であるオスマン1世は、ビザンティンに打撃をあたえた。それをみた多くのトルコ人や、モンゴル支配地からにげてきたアラブ人やイラン人がオスマンのもとにはいり、1326年にオスマンの子オルハンがビザンティン帝国の都市ブルサを陥落させたことで、アナトリアにおけるオスマン帝国の地位を確かなものとした。オスマン帝国は、西のキリスト教領に武力侵攻をつづけ、一方、東のトルコ人領には、結婚や買収などの平和的手段で領土を広げた。
2A ヨーロッパへの攻勢 オスマン帝国のヨーロッパへの拡大は、2代目のオルハン時代後期にはじまる。帝国はトラキアやマケドニアなどバルカンの領土をえ、さらにオルハンはビザンティン帝国の皇帝の娘と結婚した。オスマン軍はダーダネルス海峡をわたってゲリボル半島にせめこみ、ヨーロッパの残り少ないビザンティン領をゆさぶった。
14〜16世紀の間の3回にわたる大規模な戦闘で、オスマン帝国はヨーロッパ南東部、アナトリア、アラブに領土を拡大した。ドナウ川からユーフラテス川まで広がる初期のオスマン帝国は、ムラト1世とバヤジト1世によってつくられた。ムラト1世はおもにヨーロッパへ侵攻し、彼の死後は息子のバヤジト1世が後をついだ。彼はそれまでの伝統をやぶり、アナトリアに割拠するトルコ人小国家を武力で占領。初期帝国は全盛期をむかえた。
2B オスマン帝国の全盛期 しかし、ヨーロッパ侵攻には積極的だったイスラム教徒やトルコの知識人は、アナトリアへの領土拡大には反対したため、戦闘のほとんどはキリスト教徒兵を先頭にたてておこなわれた。同じころ、オスマン帝国はイランや中央アジアを征したモンゴルのティムールにおびやかされるようになる。1402年に、ティムールはアナトリアに侵入し、バヤジト1世をとらえてオスマン帝国をやぶった。
バヤジト1世の子のメフメト1世は、ほかの兄弟をたおして王位につき、1402〜13年にオスマン帝国の再興をはかった。彼の息子ムラト2世の時代は、ひきつづき失地回復に力をそそぎ、ヨーロッパのキリスト教国に侵攻をつづけ、ふたたびドナウ川まで領土を拡大する。この政策は次のメフメト2世の時代にもつづけられた。
1453年、1000年余の歴史をもつビザンティンの都コンスタンティノープルを陥落させ、首都をエディルネからこの地にうつし、巨費を投じてイスラムの新首都イスタンブールとして再建した。メフメト2世の時代には中央集権化がすすみ、東西交易路も手中にした。領土は西はハンガリー国境まで、東はユーフラテス川まで拡大した。
その後をついだバヤジト2世は、領土拡大よりも内政に力をいれたが、次のセリム1世は、1517年にエジプトを本拠とするマムルーク朝をたおし、シリア、パレスティナ、エジプト、アラビアを占領して、オスマン帝国をイスラムの政治と宗教の中心とした。スレイマン1世はハンガリーにまで領土を広げ、29年にウィーンを包囲し、西は北アフリカのアルジェリア、東はアナトリアの全土とイラク、イエメンにおよんだ。とくにウィーン包囲は失敗したものの、ヨーロッパ諸国にあたえた衝撃は、コンスタンティノープル陥落以上に大きかった。
2C オスマン帝国の国家と社会 オスマン帝国はスレイマン1世の時代に全盛期をむかえて大帝国となったが、このときに整備された政治、財政、軍事、外交など全般にわたる帝国の統治体制は、帝国の崩壊まで維持された。支配はスルタンを頂点としておこなわれたが、実際はスルタンの代理人である宰相が運営した。宰相には大きな権限があたえられていたが、こうした宰相は、スルタン側近の奴隷が任命された。当時の中東社会では、奴隷も主人と同じ社会的地位がみとめられていたのである。
広大な帝国をうまく機能させるため、4つの機関がつくられていた。第1は内政、王室、スルタンへの奉仕などをふくむ王室機関。第2はイェニチェリなどの軍団を通じて治安をまもる軍事機関。さらに、税の徴収など帝国の富を管理する財政機関。そして、教育と司法を管理する、教育もしくは文化機関である。
オスマンの社会はさまざまな特権をもつ支配者層と、納税義務のある被支配者層にわかれていた。支配者層は、さらに2つの層からなりたっていた。1つは、14〜15世紀にオスマン帝国の支配を独占したイスラム教徒のトルコ人、アラブ人、イラン人。もう1つは、デウシルメという制度によってキリスト教徒の子弟が徴兵され、イスラム教に改宗させられたあと、イェニチェリ軍団に編入されたり、官吏に採用されたりした者たちで、本来は被支配者である。16世紀半ばには前者がおとろえ、後者が支配者層を独占するようになった。
一方、被支配者層も納税の義務をはたせば独自にみずからの集団を運営できた。ユダヤ教、東方正教会、イスラム教のミッレト(公認の宗教別共同体:→ ミッレト制)や、ローマ・カトリック教会などは宗教的、文化的自治がゆるされ、法的にも保護されていた。
3 帝国の衰退と伝統的改革
オスマン帝国の衰退は、スレイマン1世の時代の末期にはじまり、第1次世界大戦後の1918年までつづいた。この衰退に対して、従来の機関を改善する伝統的改革(1566〜1807)と、古い制度を廃止し、新しく西側の方式を導入する近代的改革(1807〜1918)の2つの方法がとられた。
3A 衰退の本質 16世紀半ばまで、スルタンは従来のトルコ人戦士の出身者と、キリスト教徒の子孫であるデウシルメをバランスをとりながら登用していた。しかし、官僚機構がととのい、宮廷に権力が集中しだしたスレイマン1世の時代になると、デウシルメの勢力が強くなり、国家を牛耳るようになる。
同じころに、オスマン帝国は平和な時代が長くつづいたことで人口の増加になやまされるようになった。失業者が激増し、治安はみだれ、政府が農業に力をいれなかったため飢饉(ききん)と疫病が広まった。無政府状態の中、市民は困窮した状況におかれたが、社会の基盤をつくっていたミッレトやギルドが、政府的機能をはたすようになる。同じ時期に、ヨーロッパでは封建制から脱し、集権的な国家が形成されていた。
オスマン帝国の衰退を食いとめるための対策はなかなか実現しなかった。理由の第1は、ヨーロッパ諸国が自国の問題に終始し、オスマン帝国の状態に無関心だったため、脅威にはならなかったこと。第2には、この混乱でも国内の支配者層のほとんどが利益をえていたので、変革の必要性を認識していなかったこと。第3には、オスマン帝国もヨーロッパの変化に気づいておらず、イスラムはまだヨーロッパよりも優勢だと思っていたことである。
しかし1571年、オスマン軍はレパントの海戦でスペインにやぶれた。その後オスマンは地中海の覇権を奪還したものの、ヨーロッパ諸国にオスマンの弱体化を印象づけることとなった。つづいてのオーストリアとの戦(1593〜1606)で不利な立場にたったオスマン帝国は、神聖ローマ帝国を同等とみなし、オーストリアからの貢納金を免除するようになる。これにより、ヨーロッパの目にもオスマン帝国の衰退は明白になった。
3B 改革と領土の喪失 支配者階級が改革の必要性をみとめたのは、外国からの攻撃が帝国をおびやかすようになってからだった。1623年に、イランのサファビー朝のシャーアッバース1世がバグダッドとイラン東部を占領し、アナトリア東部のトルコ人の反乱を扇動した。その対策として、スルタンのムラト4世は、支配者階級と軍の立て直しをはかった。彼はイスラム法と伝統をおかした者をきびしく罰し、伝統的改革に着手する。改革は成功し、オスマン軍はイラン人をペルシャから追いだし、38年にカフカス(コーカサス)地方を占領した。
しかし、ムラト4世の後継者はふたたび以前の腐敗を帝国内にもちこんだ。ベネツィアとの戦いでダーダネルス海峡が攻撃をうけたため、それをみかねた宰相によるキョプリュリュ朝が誕生。彼らはムラト4世の方法で古い機関を改革した。オスマン帝国は勢力を回復し、キョプリュリュ朝最後の宰相カラ・ムスタファ・パシャは、1683年にウィーン占領をこころみた。しかし、はげしい抵抗にあってオスマン軍は完全に崩壊し、カルロビツ条約(1699)で、東ヨーロッパの領土をオーストリア、ベネツィア、ポーランド、ロシアに割譲することになる。
3C ロシアの圧力と文化の爛熟 しかし、多くの領土をうしなってもまだオスマン帝国には復興の力はのこっていた。1711年、オスマン帝国は黒海方面に侵入してきたロシアのピョートル1世をやぶり、カルロビツ条約でロシアにうばわれた領土をとりかえしたが、ベネツィアとオーストリアとの戦争(1714〜17)で、ベオグラードとセルビア北部をうしなう。これ以上の損失をふせぐため、オスマン軍は再編、近代化された。
この時期はまた、チューリップ時代(1715〜30)とよばれ、宮廷を中心にチューリップが栽培され、珍種には大金が投じられた。うつくしい離宮がたてられ、詩人や画家が活躍する文化の爛熟(らんじゅく)期だった。マフムト1世の統治下(1730〜54)でも軍の改革はつづけられたため、ロシアとオーストリアとの戦争(1736〜39)がおこったときに、セルビア北部と黒海北部の地域を奪還することができた。
その後しばらくヨーロッパとは平穏な関係がつづいた。しかし、この平和によって支配者階級にふたたび腐敗が広がり、1768年と92年の南下をつづけるロシアとの戦争で軍は敗退、崩壊し、クリミア半島をうばわれ、帝国自体も崩壊の危機にさらされた。
4 近代化改革の時代 19世紀には、ヨーロッパ諸国の侵略と並行して、帝国内の少数民族のナショナリズムにもなやまされるようになる。1829年のギリシャ独立を皮切りに、セルビア人、ブルガリア人、アルバニア人、アルメニア人が次々と反乱をおこし、独立を要求した。帝国が存続していたのは、帝国にそれだけの力があったからではなく、ヨーロッパ列強間で残りの領土の分割がまとまらなかったためだった。→ 東方問題
オスマンの支配者階級はこの対策として、古い制度を廃止して、西欧から近代方式を導入するタンジマートとよばれる改革をおこなった。マフムト2世のもとではじまったこの改革は、アブデュルハミト2世(在位1876〜1909)の時代にもうけつがれ、西側を模倣した行政と軍の近代化と、中央集権化がすすめられた。それまで共存をはかっていた少数民族の抑圧もはじまり、1894〜1918年には何十万人ものアルメニア人が虐殺されている。
4A ヨーロッパの侵攻 西欧化改革運動であるタンジマートをすすめるうちに、経済、金融、内政、外交にわたって深刻な問題が浮上してきた。産業化されたヨーロッパ諸国は、オスマン帝国をやすい原材料の入手先とし、自国の製品を売る市場にしようとした。16世紀以来のカピチュレーションという協約のもと、スルタンはヨーロッパ人に自国の法にしたがって暮らすことをみとめていたので、オスマン帝国は外国からの安価な製品の輸入をおさえることができなかった。オスマン帝国は外国の銀行から多額な借金をしていたため、タンジマートの末期には全歳入の半分以上を利息としてしはらうようになり、国家財政は破綻(はたん)していった。
「憲法のための新オスマン人」とよばれる知識人とリベラリストのグループは、支配階級に権力の制限をつけ、国民に多くの権利をあたえるように要求した。しかしタンジマートの指導者たちに弾圧され、「新オスマン人」たちは海外に逃亡する。同じ時期に新しく独立したギリシャ、セルビア、ブルガリアなどバルカンの国々は、マケドニアの支配権をえるために大規模な暴動をおこした。1870年ごろにはタンジマートのおもな指導者が没したため、支配者層は改革前の腐敗した状態に後戻りした。
4B 立憲制の導入 ロシアとオーストリアからの絶え間ない圧迫や、立憲制をのぞむグループの台頭で、スルタンのアブデュルアジーズ(在位1861〜76)は失脚する。わずかの期間だけ在位したムラト5世をついだスルタンのアブデュルハミト2世は、1877年に憲法を公布し政府を承認したが、ロシア・トルコ戦争がはじまったことを口実に、すぐに廃止した。ロシアには完敗したものの、イギリスの協力をえてベルリン会議(1878)ではロシアの南下政策が阻止されたため、帝国は危機を脱することができた。
しかし、帝国の弱体化は決定的だった。その後アブデュルハミト2世はタンジマートに着手し、ヨーロッパとの衝突を念頭において1878年に議会を廃止し、スルタンに権力を集中させる独裁体制をしいた。
アブデュルハミト2世は経済的な立て直しには成功したものの、独裁的な政治体制が反発を買い、憲法と議会の復活をのぞむ青年トルコ党の革命(1908)をひきおこした。この革命は成功したが、オーストリアのボスニアとヘルツェゴビナ併合、ブルガリアの東ルーメリア併合、マケドニアのテロ、アナトリア東部の暴動などの危機にみまわれる。
アブデュルハミト2世は、これらの危機を新政権の失敗だとし、1909年4月に反革命運動をおこした。議会は解散させられ、多くの革命メンバーはとらえられたが、青年トルコ党にひきいられたマケドニアの軍がイスタンブールにもどって反革命派をおさえ、アブデュルハミト2世は退位させられる。彼の弟メフメト5世が王位をついだが、統治はしなかった。
4C 青年トルコ党の時代 初期の青年トルコ党の時代(1908〜18)は、オスマン帝国の歴史の中でもっとも民主的な時代だった。議会や憲法が復活し、政党も誕生し、第1次世界大戦(1914〜18)中に女性の権利も導入された。しかし、1912年の第1次バルカン戦争で「統一と進歩委員会」が反乱をおこし、エンウェル・パシャ、タラート・パシャ、ジェマル・パシャにひきいられた三頭政治が開始される。13年の第2次バルカン戦争のときに、アドリアノープル(現エディルネ)を奪還しようとするバルカン諸国の不和によって、三頭政治の独裁は確立された。
4C1 第1次世界大戦 トルコ政府は第1次世界大戦への参戦をさけようとしていた。しかし、うしなった領土の回復に協力するというドイツに対して、イギリスは自国にあるトルコのモスクを没収した。そのためトルコは1914年11月、同盟国として参戦することになった。ゲリボル戦役には勝利したものの、スエズ運河とエジプト獲得のためにシナイ半島を横断する作戦は失敗におわる。このため、イギリスに先導されたアラブ人の反乱がアラビア半島でおこった。アラブ人の支援をうけたイギリス軍はシリアに侵攻し、戦争がおわるころにはアナトリア南部にまで到達した。
1915〜16年にロシアはアナトリア東部と中央部に侵入したが、17年にロシア革命がおこったために撤退する。外国からの侵入にくわえて内戦、飢饉、疫病が広がり、全人口の約4分の1が死亡、経済は破綻した。
4C2 占領と独立戦争 第1次世界大戦での降伏の後、首都イスタンブールはイギリスを筆頭とする連合国に占領された。1920年に対連合国講和条約であるセーブル条約がむすばれ、バルカンとアラビア半島だけではなく、帝国の本拠地アナトリアの東部と南部も連合国か少数民族に譲渡することになった。19年にイギリスに支援されたギリシャ軍がイズミルを占領し、アナトリア南西部に侵攻すると、アタチュルクにひきいられた民族独立運動がおこり、オスマン帝国政府の打倒と外国勢力の追放をめざして、はげしい戦いがおこなわれた。この独立戦争中にアタチュルクらはトルコ国民党を結成し、アンカラに国民政府を樹立する。
国民政府軍は国内の占領軍を追いだし、オスマン帝国をたおした。1923年に新政権がむすんだローザンヌ条約で、トラキア東部とアナトリアの回復、トルコの独立が国際的にみとめられた。同年10月、アンカラを首都とするトルコ共和国が宣言され、アタチュルクが初代大統領に就任。同時にスルタンのイスタンブール政府は国外に逃亡した。
5 トルコ共和国
トルコ共和国の最初の15年間は、のちに憲法にもしるされた六原則にもとづいて統治された。国内諸制度は、イスラムの制度にかわって西欧の制度を導入して近代化がはかられた。また、ほかのイスラム諸国に先がけて女性のベール着用を禁止するなど世俗的な西欧化もすすめられる。アタチュルクの時代は、経済躍進をはじめとする、あらゆる発展の時代だった。トルコは旧領土のバルカン諸国と一定の距離をおいた関係をたもち、東方のイスラム諸国との連合をさけるために世俗化政策がとくに強調された。
5A 中立から西側寄りへ 後をついだイノニュは、アタチュルクの統治を継承した。第1次世界大戦の悲惨な結果をわすれなかった彼は、第2次世界大戦中は中立をたもった。1946年、ソ連はトルコを自分の勢力圏にいれようとしたが、トルコはアメリカ合衆国のトルーマン大統領からの大規模な援助をうけいれ、52年にはNATO(北大西洋条約機構)に加盟する。46年からは、それまでの共和人民党の独裁から複数政党制に移行した。50年の総選挙で民間企業を擁護し、経済を自由化する立場をとった民主党が多数を占め、共和人民党は野党になった。
バヤル大統領のもと、1950〜60年には民主党のメンデレスが政権を担当する。農業の近代化など大規模な開発政策でトルコ経済は急激に成長し、アメリカの援助をうけてトルコは西側陣営にはいった。しかし、急激な経済成長は財政難、インフレ、対外赤字を生みだし、深刻な経済的、社会的緊張がおこった。60年には学生のデモを鎮圧するために軍隊が投入されたが、軍部はこれを機にクーデタをおこして政府を転覆させた。軍事政権はメンデレス首相を処刑し、翌61年、新憲法を公布する。
5B 混沌の時代へ 1961年に民主主義を基調とする憲法が承認されると、10月には軍部がしりぞいて民政にうつった。50年代の経済成長とともに労働者が団結の自由をえたことで、以前は政府、国会、政党によって保持されていた権力に、労働組合が力をもちはじめた。同じころ、テロ行為にうったえる過激派左翼が登場したため、それに反発する右翼も過激化し、国内に両極のテロ組織が誕生する。50年代に台頭した労働組合も、右派で穏健なトルコ労働者党と、共産主義者や左派による進歩的労働組合同盟(CPTU)の2派にわかれた。60年代半ばには、この2つの組織の影響力は、社会の隅々にまでゆきわたるようになった。
政界では、社会民主主義者のエジェウィトひきいる共和人民党と、デミレルひきいる公正党の2つが力をきそうようになる。両党とも活発な社会・経済政策をうちだしたが、どちらが右派というわけでもなく、またどちらも国会で優位にたつだけの多数派を占めることができなかったため、国内政治はきわめて不安定だった。
5C キプロス問題と外交政策 トルコの外交は西側同盟国に対して忠実で、NATOとアメリカ軍のために基地を提供していた。しかし、1974年にキプロスでギリシャ系住民のクーデタがおこり、それに対処するためにトルコ軍がキプロス北部を占領すると、西側同盟国との関係はにわかに緊張した。アメリカは軍事的、経済的援助を停止したが、トルコは国内のアメリカ軍基地を閉鎖することで反撃。アメリカと国連の希望に反して、トルコ軍はキプロス北部に残留し、トルコ系住民の支持をえてキプロス・トルコ連邦国の樹立を宣言する。
アメリカ議会は援助を再開し、トルコに基地を開放するよう要請したが、トルコ政府はそれに応じなかった。国内の左派や共産主義者もアメリカに強硬な姿勢で対するようにあおり、イスラム・グループも、石油によって裕福になり、ソ連寄りの路線をとるイスラム・アラブ諸国に接近するようよびかけた。しかし、キプロスに要した戦費負担は大きくなっていた。
5D 軍事クーデタ キプロス問題と石油危機による不況からたちなおることができない中で登場したデミレル政権(1979〜80)は、経済的な支援をもとめて西側と同盟をむすぶことをきめたが、共和人民党は共産主義ブロックへの接近を提唱した。双方ともふたたび暗殺など過激な行動をとり、イスラム教内部の抗争もくわわって国内は内乱状態となる。
1980年9月、軍部はクーデタをふたたびおこして政権を掌握し、憲法を停止した。軍事政権は戒厳令を発して政治活動を禁止、新聞を統制下におき、何千人もの左右過激派を逮捕した。軍部は国家保安評議会を発足させ、評議会のエウレン将軍を国家元首に、ビュレント・ウルス司令長官を首相にすえた。軍事政権は西側から経済援助をとりつけて経済再建に着手する。
5E 民政の復活 1982年に新憲法が制定されると、エウレンは大統領に就任して民政復帰を開始する。83年11月の総選挙で中道保守の祖国党が勝利し、党首のオザルが首相になった。89年に、オザルは60年以来初めての民間出身の大統領に就任し、アクブルトが首相になった。
トルコは1990〜91年の湾岸戦争では、イラクを批判したが参戦はしなかった。戦後、蜂起に失敗したイラクのクルド人がトルコ側ににげてきたが、84年以来国内のクルド人とたたかってきた政府は、彼らの多くを国境近くにとどめたままにした。92年には、マルクス主義のPKK(クルド労働党)にひきいられ、自治をもとめるクルド人とのはげしい抗争が、トルコ南東部とイラクで発生している。
VIII 経済再建と政治課題
1992年6月、トルコは運輸、エネルギー、通信分野での協力をすすめるため、11カ国からなる黒海経済協力機構の一員となった。ソ連崩壊後の92年と93年には、アゼルバイジャンとアルメニアの紛争の調停に積極的にかかわるようになる。93年にオザルが急死すると、デミレルが大統領の座についた。経済大臣のチルレルがデミレルの後をついで正道党の党首となり、初の女性首相が誕生した。
財政赤字、弱い通貨、国連の対イラク通商禁止による損失などでトルコ経済は逼迫(ひっぱく)していた。そのためチルレルは税金の増額、国営企業の民営化などの経済改革をおこない、トルコ経済の活性化をはかった。1994年11月、デミレルは南東アナトリア開発計画の基幹となる、シャンルウルファ用水を完成させた。この開発計画は世界的にも大規模なプロジェクトで、完成予定は2005年、予算は110億ドルである。完成時にはダムが22、水力発電所が19カ所できるが、シャンルウルファ用水は新アタチュルク・ダムから水を供給し、40万ha以上の土地を灌漑(かんがい)する予定になっている。
1995年12月の総選挙で正道党は第2党に転落し、チルレル首相が辞任。96年3月、祖国党の党首であるイルマズを首相とする連立内閣が成立した。しかし、この政権も議会による不信任決議で短期間に崩壊し、政局は混迷した。そうした中で、イスラム原理主義者によるデミレル大統領暗殺未遂事件も96年5月におこった。
1994年、政府とクルドの関係は悪化する。行楽地やイスタンブールなどの市街地でのクルド人のテロに対して、政府はトルコ南東部とイラク北部のクルド人地域に反撃をくわえ、双方に大きな犠牲者がでた。親クルドの弁護士やジャーナリスト、クルド人国会議員の逮捕など、トルコ政府のきびしい対応に、外国政府や人権団体が懸念を表明している。95年3月には3万5000人のトルコ兵が、クルド人反乱軍を鎮圧するためにイラク北部に侵入した。しかし、国際的な非難が高まり、トルコ軍は6週間後には撤退。ところが96年6月、ふたたびトルコ軍が侵入している。
1996年6月末、イスラム主義の福祉党と正道党の連立内閣が発足、福祉党の党首エルバカンが首相となり、近代トルコ史上はじめてイスラム主義者の首相が誕生した。福祉党は世俗化によるトルコの近代化、西欧化に反対してイスラム化の推進を主張、また対外的には従来のNATOやEUとの協調に反対してイスラム諸国との関係強化をはかろうとした。しかし、このイスラム主義には反対も多く、97年4月には正道党の閣僚がイスラム化推進に反対して辞任、また軍部も政教分離の徹底をもとめて圧力をかけ、憲法検察庁は福祉党の政策は政教分離をさだめた憲法に違反するとして憲法裁判所に提訴した。6月にエルバカン政権は崩壊、98年1月には、憲法裁判所によって福祉党に解党判決がだされ、エルバカン党首らは5年間の政治活動が禁止された。これをうけて福祉党は2月に正式に解党、福祉党の国会議員147人のうち140人は、新たに組織された美徳党に入党した。その結果、美徳党がいぜんとして議会第1党の地位を確保することになった。97年6月に祖国党のユルマズ党首を首班として連立政権が発足したが、少数与党であるため政権の基盤は弱かった。
念願のEU加盟問題は、1997年12月のEU首脳会議で、トルコ国内の人権問題により拡大EUの加盟対象の第1陣からはずされ、交渉準備国にとどまった。またキプロスでは、南のギリシャ系のキプロス共和国のみが加盟対象の第1陣とされ、トルコ系の北キプロスが除外されたため、トルコは強く反発し、98年3月に、北キプロスと初の連合評議会を開き、部分的統合の手続きなどについて協議することになった。
1998年11月、汚職疑惑によりユルマズ内閣が退陣し、99年1月、民主左派党党首エジェビットによる新内閣が誕生した。4月におこなわれた総選挙では民主左派党が第1党に躍進し、民族主義者行動党が第2党、美徳党が第3党となった。祖国党、正道党は議席をへらした。エジェビットは民主左派党、民族主義者行動党、祖国党の3党連立内閣を発足させた。2000年4月、次期大統領にアフメト・ネジデット・セゼル前憲法裁判所長官を選出することで与野党が合意した。
1999年6月、トルコからの分離独立をめざして武装闘争をつづけていたクルド人反政府組織のクルド労働者党(PKK)議長アブドラ・オジャランに特別法廷は死刑判決をくだし、11月、刑が確定した。オジャラン議長は欧州人権裁判所に上訴、EU諸国はオジャランの死刑執行を停止するようトルコ政府に要請した。トルコ政府は、EU加盟への障害になることをさけるため、執行の一時凍結を決定した。
1999年8月、トルコ北西部の工業都市イズミトでマグニチュード7.4の地震が発生し、公式発表で1万7000人の死者をだす惨事となった。震源地から約100kmはなれたイスタンブールでも、ビルやアパートが倒壊した。11月には同じ北アナトリア断層に属するドゥズジェでマグニチュード7.2の地震が発生し、死者700人をだした。
( 以上、「エンカルタ百科事典」より)