第3日目(1)
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チェンライ滞在
8時30分、ホテルを出発、まずはチェンライ市内の観光に向かう。起床時から右足首から下の部分が痛み始めたが大丈夫かな?
チェンライは、13世紀にランナータイ王朝の都として定められた歴史ある街で、その当時の名残を偲ばせる遺跡も数多く残っているとか。ちなみに、チェンライのライは、創始者のメンライ王の名からとったもの。チェンは町を意味するので、さしずめ、チェンライはメンライ王の町ということになろうか。
そんな説明を聞いているうちに、8時50分、最初の観光場所、ワット・プラケーオに着く。
ここは、チェンライの町でひときわ由緒ある寺で、緑に囲まれ、静かな佇まいの美しい寺院である。
首都のバンコクに、別名エメラルド寺院と呼ばれる、同名の寺院があるのをご存知だろうか。そこにはヒスイの仏像(エメラルド仏)が安置されているが、実はその仏像が発見されたのはこのチェンライのワット・プラケーオとのこと。
靴を脱いで本堂に入ると、こちらにも、その後信者によって寄進された別のエメラルド仏が静かな光を放って鎮座していた。
次に訪れたスポットは、メンライ王の像が立っているところ。
メンライ王は、文字通りこの町の創始者で、仏暦1782年(西暦1239年)、ラワジャカラート家第24代ラーオメン王の息子として生まれ、20年後、3つの河の集まる地域を手中に収め、現在まで語り継がれる大国を建国したという。
今でも信奉者が多く、像の下には沢山の献花が絶えないようだ。
次いで、チェンライの町を後に、1時間ほど北に走り、メーサイに着く。タイ最北の町、ミャンマーと唯一陸路で結ばれた国境の町である。
ミャンマーとの国境の間にはメーサイ川が流れており、その上に橋が架かっている。橋の手前には国境を示す大きな門があるものの、川幅はこれが国境か?と思うくらいに短く、拍子抜けしたのは私ばかりではあるまい。
ここて、パスポートを預け、徒歩にて橋を渡る。橋を渡ればそこはミャンマー、30分の時差もある。地元民は交易のため日常的にここを行き来しているらしく、車、人とも多く、活況を呈している。
車は、タイは左側通行、ミャンマーは右側通行なので、橋の真ん中で、それぞれ車線変更する仕組みになっているのが面白い。
以下の写真で、国境の風景を歩いた順にご覧いただきたい。
さて、ミャンマー側のタチレクの町に入ると、すぐに待機していた人力タクシー(?)に二人ずつ分乗し、町なかの観光に出発した。正式に入国したわけではないが、外国人でもここタチレクの町に限り移動が許されているらしい。
最初にストップしたところは、ラキャンという瀟洒な寺院。ミャンマーもタイに劣らず敬虔な仏教国であり、まだあどけない少年修行僧の姿が印象的であった。
次にストップしたところは、とある狭い路地への入口。
見るからに貧しい生活感の漂う軒並みである。最初は静かだったが、我々が歩き始めると、どこからともなく、一斉に老若入り混じった売り子が大勢飛び出してきて、手製の布製品を売りこみ始めた。マンツーマンどころではない。我々一人に対して4〜5人が取り囲む。そのしつこさには辟易させられた。いずれも安いことは安かったが-----
ようやくの思いで路地を抜けて、再び人力タクシーに乗り、次に着いたところは金ピカの仏塔を中央に、広い敷地を持つ寺院。名前を聴いたが、ガイドも把握していない様子。タイのガイドもこちらへはあまり来てないらしい。ただ、ヤンゴンの有名な寺のコピーだと言う。そう言えば何となく見たことのあるような気がした。( 帰国後に調べたところ、それはヤンゴン随一の寺院、ジュエダゴォン・パゴダを模して造られたワット・チェディであった。(「ミャンマー編」参照))
それにしても、境内のはずれで見かけた托鉢層の行列の像はユニークであった。
次いで国境近くまで戻り、常設マーケットを覗く。いやはや人通りの多かったこと!
ここにはタイとミャンマー各地からの、食料品を初め、衣料品や日用品に至るまで、ありとあらゆる品物が並んでいる。また男と見ると怪しげな写真を売りつける不逞の輩たちも多く、30分間の散策中に何度声をかけられたことか。当然物乞いの者たちもそこかしこにいた。
ちょうど正午ころとあって太陽は真上にあり、暑い上にこの雑踏ではとても気分よく歩けるものではなく早々に引き上げた。
興味深かったのは、ここはミャンマー領でありながら、タイの通貨が通用したことで、しかも売人にはミャンマーの通貨よりもタイの通貨のほうに人気があったようで、このあたり、やはり両国の経済力に差があるためだろうか。
それにしても国境市場の活力は相当なものと、改めて再認識した次第である。
マーケット見学後、再び国境の橋を渡ってタイ側のメーサイの町に戻り、「ワンソン・ホテル」という、メーサイ川沿いの5つ星ホテル内にある中華レストランにて昼食となる。
私の苦手なビュッフェ方式であったが、中華料理は好物であり、しかも午前中の観光で結構お腹が空いていたので、美味しく食べられ、麺をお代わりしたほどであった。
それにしても国境のこんな小さな町にこんな大きなホテルがあるとは、意外であった。この地域のこれからの観光事業の発展を見越してのことであろうか。
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