第2日目
(11月23日)
アテネ → ナフプリオン
6時起床。睡眠不足だし、最初の朝のこととて、荷物の取り纏めに手間取る。 7時に食堂に行き、ビュッフェ方式の朝食をとる。やはり一人での食事はわびしい。7時30分のモーニングコールに続き、添乗員のYさんからTelあり。今日行くミケーネには暗いところがあるので、懐中電灯をお持ちならご用意を、とのこと。
8時32分、専用バスで出発。ペロポネソス半島に向かう。まずはガイドさんが紹介される。ひとりは、ギリシア在住18年という42、3才の丸顔で眼鏡をかけた実直そうな女性(木下さん)。この人はギリシア周遊中ずっと付いてくれる、いわゆるスルー・ガイドで、もうひとりは現地ガイドのピーター氏。60才くらいのずんぐりした男性。バス内は禁煙とのこと、有り難い。天気はどんよりしているが、予報によると持ち直すとのこと。
以下は木下さんの説明。
· 本ツアーはギリシアの殆どの見どころをまわる。
· アテネでは50%の人が公務員で、朝7時30分から勤務。そのため朝早くから騒がしい。
· 国土は日本の1/2.8。クレタ島が四国の半分に当たる。
· ギリシアが世界に誇るのは、@ ヨーロッパ文明発祥の地 A エーゲ海(多島海…3600の島)に15000キロの海岸線 B デモクラシー発祥の地
· 11年前から8年間、社会主義政党が政権を取っていたが、現在は自由主義政党が政権についている。
· 毎年800万人の観光客
· ギリシアの人口は980万。そのほか800万人が世界各地に移民している。都市別に見ると、@アテネ(350万人)、Aテッサロニキで、Bにはオーストラリアのメルボルンが入るという。またドイツにも多勢流れている。
· 宗教はオーソドックスなギリシア正教で、ロシア正教の源流をなす。
出発から20分ほどして、左手に海が見え出す。スカラマンガス湾である。右手には国営の石油精製工場があり、この辺りがギリシアで一番汚染された場所とのこと。何やら油臭いにおいが漂っている。
9時05分、有料道路に入る。左手にサラミナス島を見てしばらく進む。木下さんが、一人一人にこれからのコースの説明にまわってくれる。親切なガイドさんだ。
9時15分、昔のポリスのひとつで、今では養鶏の町として知られるメガラの町が右手に見え出す。そして左手にはこれから行くペロポネソス半島がぼんやりと見える。
9時38分、右手に水平な頂の小山あり。これはコリント運河を掘ったときの土を盛り上げて造った人工の山だそうだ。
有料道路を50km走り、9時40分、一般道路に出たところが、コリント運河であった。まずは橋上から運河を観賞する。
総延長6343m、幅23m、深さ8mのこの運河は、19世紀末にパナマ運河などと同一の技術者グループの手にによって造られ、これによりサロニコス湾とコリンシアコス湾が結ばれたもので、現在は貨物船などのほか、多くの船舶の重要なルートになっているとのこと。
多くの見学者が車道に溢れないよう、歩道との間が金網で区切られていた。しかも歩道が極端に狭く、添乗員のYさんが運河をバックに写真を撮ってくれたのはいいが、人物が度アップになってしまった。
橋のそばに「エルドール」というドライブインがあり、店内ではちょっとした飲食物や土産類を売っていたが、特に食欲も購買欲もわかず、眺めただけで、10時7分、次の目的地、コリント遺跡に向け、バスは出発した。
今年は30年ぶりの暖かさだそうで、10日前までは半袖姿だった由。ギリシアは国土は狭いが、52の県に分かれているそうで、ちょうどこれよりアッテカ県からコリント県に入るとのこと。この辺はオリーブとオレンジの産地だそうだ。
10時22分、コリント遺跡着。1000ドラクマの入場券を渡され、遺跡内に入る。
7本の柱を残してそそり立つアポロン神殿(左写真)のみがBC6世紀に建造されたもので、あとはみなBC2世紀以降のローマ期のもの。
博物館の中庭に首のない立像がいくつもあった(右写真)が、皇帝が代わるたびに首だけをすげ替えていたからとのこと。
11時37分、次の目的地ミケーネに向かう。やがてバスは高原地帯にはいる。ギリシアへの日本人観光客は毎年10〜12万人とのこと。ちなみにパリへは60万人だから、まだまだ開拓の余地がありそうだ。
11時52分、左手にアプリコット畑、前方に冠雪した山が見える。6年前、アテネでは40℃以上の日が12日間も続き、千人以上の死者が出、それからエアコンが売れ出した由。更には道の両側にオリーブ畑が続く。
やがて左折し、立派なユーカリの木々がしばらく左右に続いていたが、これらはギリシア遺跡の発掘で名高いシュリーマンが植えたものだとか。
ミケーネには正午を少しまわった頃に着き、まずは遺跡近くのレストラン「キング・メネラオス」にて昼食。M夫妻とテーブルをともにする。牛肉主体の料理にパン。ワインがサービスで付き、デザートは洋梨だった。
ミケーネは、永く幻の国と呼ばれ、19世紀後半にドイツの商人シュリーマンによって発掘されるまで、ホメロスの英雄詩「イリアス」や「オデッセイア」に出てくるミケーネは全くの作り話とされていたとか。実にBC16世紀の遺跡である。
遺跡は小高い山の中腹に展開されており、最初の見どころは、宮殿入口のライオン門。(右写真)
城壁の正面、高さが3m強のもので、門の破風には一対のライオンが前足を祭壇に載せている。
この彫刻はミケーネ王国の家紋に当たるものらしいが、残念ながらライオンの頭の部分は残っていなかった。
次に見たのは円形墓地。(左写真) この墓地の特徴は、高さ1.5mほどの石板で二重に覆われていたこと。石板の壁と壁の間には、小石が埋められていたそうで、盗掘者に対するカムフラージュになっていたとか。
なお、ここからあの有名な「黄金のマスク」(右写真)が発見された由。
さて、円形墓地から途中の眺望を楽しみつつ丘を登り、通路の入り組んだ凝った設計の宮殿跡を散策した後、アトレウスの宝庫(右写真)へ行く。
ここは王の墓地のひとつとかで、真っ暗な中を懐中電灯で足下を照らしつつ、長さ34m、幅6mの墓の道を奥の墓室へと進む。
墓室は高さ13.2m、直径14.5mの大きなもので、上に行くにつれて小さな石を組んで屋根を閉じる方法を採っており、上部の石の重さは巧みに分散されている。
今から3500年も前にかくも素晴らしい建築工学が実践されていたとは、まさに驚くほかはない。
墓室の奥には更に小さな墓室があった。だが、シュリーマンがここを発見したときには、既に何も残されていなかった由。
14時45分、バス出発、次の目的地ナフプリオン郊外のエピダウロス遺跡へと向かう。暑くなってきた。ついにチョッキまで脱ぐ。
途中、セラミックの民芸品店でのトイレ休憩を経て、その格好から「アガメムノンの寝姿」と呼ばれている山並みを右手に山間部の道をひた走る。やがて小さな町を抜ける。ナフプリオンまで12kmの表示あり。
15時25分、寒くなってきて、暖房が入る。しかし運転手は横の窓を開け放したままだ。程なくナフプリオンの町を通過。昼食時のワインの酔いが回ってきたのか、いささか眠い。途中、道路が工事中で行き止まり。引き返して迂回したのはいいが、とんでもない悪路に悩まされること20分。16時15分、やっとエピダウロス遺跡に着く。
ここではBC4世紀の円形劇場(左写真)がほぼ完全な形で残されていた。その規模の大きさに思わず歓声を上げた。
山の斜面を利用した客席は55段あって、12500人の観客を収容できるとか。中央の円形部分、すり鉢の底になっているところが舞台になっており、しかも最上段の席にも俳優達のささやく声がしっかり届くそうだ。
実際にガイドの木下さんが手拍子を打って音を聞かせてくれた。確かに驚くべき音響効果だ。今でも週末の夜は、ここでギリシア悲劇が演じられているとのこと。
16時53分、遺跡をあとにナフプリオンへの帰路につく。もう11月下旬の17時だというのにまだ明るい。 途中羊の群が道路を歩いているのに出くわす。
ようやく薄暗くなり、17時30分、ナフプリオンの町に着く。ここで現地ガイドのピーター氏はお役ご免となる。殆どついてきただけのガイドだったが、それだけスルーガイドの木下さんが優秀だったということか。
2分後、アルゴリコス湾を望む海辺に着く。入り江には島全体が要塞化しているブルジイ島(元監獄の島)が浮かんでいた。
夕焼けの綺麗だったこと。ちょっと無理な気もしたが、一応カメラに収める。(右写真)
背後の山にはパラミディ砦が聳えていた。18世紀の初め、ベネチア人が築いたもので、後には政治犯専用の牢獄として使われたとか。迫力ある構えではあった。
残念ながらもはや暗すぎて写真は無理だった。
17時46分、「ホテル・アマリア」着。添乗員のYさんから今夜から翌朝にかけてののスケジュールの説明を受けた後、部屋の鍵を受け取り、111号室に入る。なかなか立派な部屋だ。
旅装を解いた後、入浴し、夕食時までしばし休憩。6箇所もの観光でさすがに疲れた。
19時30分からホテル内レストランにて夕食。ガイドさんお勧めのペチーナという松ヤニ入りのワインをグラスでとる。残念ながら薬臭く、日本人好みではない。料理のほうは、アンフルというスープに始まり、肉料理、魚料理と続いたが、いずれもオリーブの香りが強烈で油こく、殆ど残してしまう。スープだけは塩辛いのを我慢して平らげ、あとは野菜サラダに果物(リンゴとオレンジ)で間に合わす。
夕食を終え、20時55分、部屋に戻ったとたん、電話が鳴る。誰だろうと思って出ると、Yさんから。何と上着を椅子にかけたまま出てきてしまった。あわてて取りに戻る。
21時44分、就寝。疲れた割には、歩数計の数値はは6143歩だった。