4日目

(66)

 ホテルを05分に出発、ロンドンデリー市内の観光に向かう。

 現地ガイドは、中国系アイルランド人の若い男性で、極めて分かりやすい英語で案内してくれた。説明: C:\Users\tonoguchi\home1\ireland\derry0.jpg

 ここでは、市の人口約10千人のうち1/3のプロテスタント住民はロンドンデリーと呼び、/を占めるカトリック住民はデリーと呼ぶとのこと。両者間では過去にこの町の支配をめぐり、城壁を挟んで壮絶な戦いがあったとか。

 20分、市の中心広場、ザ・ダイアモンドでバスを降り、徒歩での観光となる。

 下左写真は、城壁の上から北に向かって城壁外を眺めたもので、真中に聳える尖塔は、1851年建立でカトリック系の聖ユージーン教会とのこと。今でもほとんどのカトリック住民は城壁外に住んでいるらしい。

 中央写真は、1613年にプロテスタント入植者によって造られ、三度にわたる包囲戦に耐えた全長1.6km城壁の一部で、ご覧のように城壁外に向けた砲台が残っている。

 右写真は、1633年建造の威風堂々たるプロテスタントの教会、聖コラムズ大聖堂で、内部では1689年の包囲戦のときに使われた門の鍵など、当時にちなんだものが数多く見られた 。

説明: C:\Users\tonoguchi\home1\ireland\derry.jpg

説明: C:\Users\tonoguchi\home1\ireland\cannon.jpg

説明: C:\Users\tonoguchi\home1\ireland\st.coloms.jpg


 さて、1040分、ロンドンデリーを後に一路南下、いつのまにか国境を通過し、アイルランド共和国の都市、ドネゴールで下車、中央広説明: C:\Users\tonoguchi\home1\ireland\donegal.jpg(The Diamond)に面したホテルでの昼食となる。

 ドネゴールは、ゲール語で外国人の要塞という意味だそうで、ケルト人によって世紀ごろに開かれた町であるとか。

 以降、バイキングの襲来など様々な経緯を経て現在に至っている由。主な産業は毛織物と漁業だそうだ。

 街の中心は左写真のザ・ダイアモンドで、ちょうど昼時とあって、若者らがたむろし、楽しそうに話していた。

 なお、ここにあるオベリスクは17世紀にアイルランドの年代記を記した人の年代記作者を記念して建てられたものと聞く。

 

 1310分、次の観光場所、聖フランシスカン修道院跡へと向かう。
 途中、運転手の勘違いで、現役の聖フランシスカン修道院に行ってしまい、大幅な時間的ロスはあったものの、説明: C:\Users\tonoguchi\home1\ireland\franciscan.jpg10分、なんとか目的地に到着した。

 修道院跡ドネゴールの街のはずれ、河口を臨む小さな岬の先にあった。
 何のことはない、ここは先ほどの中央広場から川沿いに南西方向へたった1km足らずのところであった。

 ここには数百年前の年号を刻んだ石盤や、崩れかかった石の壁が残っているほか、付近には新旧のハイクロスが林立していた。(右写真)

 夕方などには石柱の影が長くのびるため、霊的な雰囲気が漂うと言う。


 次いで今夜の宿泊地、世紀にバイキングによって開かれた町、スライゴに向かう。説明: C:\Users\tonoguchi\home1\ireland\yeats.jpg

 左の写真は、スライゴ郊外にある、アイルランドの生んだ偉大な劇作家で詩人のウイリアム・バトラー・イェーツ(1865〜1939)の墓標で、亡くなる数日前につくったいう詩が、次のように刻まれてる。

 "Cast a cold Eye On life,Death,Horseman,pass by"

 直訳すれば、「生と死に冷徹な一瞥をくれて、御者は馬を駆っ走り去る」ということになろうが、これを作者の意を説明: C:\Users\tonoguchi\home1\ireland\yeats2.jpg汲んで意訳すれば、 「生と死、そんなに大事に考えなさんな、ただ過ぎ去るだけじゃないか」とでもいうことになろうか。

 この後、スライゴの街なかに入り、スライゴ県立博物館で、イェーツのノーヘル賞メダルのコピーやポートレート、直筆の手紙や小物類のほか、イェーツの弟(画家)の作品などを鑑賞し、この日の観光を終え、1715分、市内のホテルに入った。

 

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