いよいよ本ツアーも後半に入った6日目の9月26日、朝早く7時半に出発、高速道路を南下して、一路ラトヴィアへ向かいました。
ハリンガというところでの小休止を挟み、約4時間かかってラトヴィアの国境地帯に着きました。エストニアでの出国手続きは全くなく、ノーチェックでした。ロシア出国時に比べてなんたる違いでしょう。ラトヴィア側の入国手続きでもバスに乗ったままで、、パスポートを集められ、スタンプを押されただけの簡単なものでした。
ここから首都のリーガまで、右にバルト海を臨みつつ更に南下し、タリンから合計約400kmをひた走って、14時頃、やっと目的地に到着、旧市街のレストラン「リボニア」にて、遅い昼食をとりました。
リーガは古くから港湾都市として栄え、現在もバルト3国最大の都市を誇っています。1210年にドイツ騎士団によって要塞が築かれ、歴史が始まったとか。13世紀後半からはハンザ同盟に加わり、交易の要衝として発展をみました。そのため、現在もドイツ風の端正な建物が目立つ街です。
さあ、リーガ旧市街の観光にスタートです。
まずは、かつて諍いのあった猫の家とビッグ・ギルドに始まり、高さ25mの火薬塔、街を敵から守った城壁、唯一残った中世の城門スエーデン門、鋭い尖塔が特徴の聖ヤコブ教会、15〜17世紀の住居が並ぶ三兄弟、14世紀に建てられたリーガ城、街の歴史そのもののリーガ大聖堂、美しいゴシック建築の聖ヨハネ教会、 リーガ最大の高さを誇る聖ペテロ教会、昨年再建されたばかりのリーガの新名所市庁舎広場などをめぐりました。
以下にその主なものをご紹介しましょう。
右の写真は火薬塔です。かつての城壁にはこのような塔が28あったそうです。
かつてここから城外に続く道は郊外に出る主要路となっていたため、城内を守る最も重要な要塞だった由。
円筒型の塔は高さ25.5m、壁の厚さは3mもあります。
14世紀に建てられ、16世紀に再び建て直されて火薬の貯蔵庫として使われたことから、その名が付いたとか。
塔は現在は戦争博物館になっていますが、外壁には、17〜18世紀にロシア軍の攻撃によって受けた7つの砲弾が埋まったままになっているということです。
左の写真が三兄弟です。兄弟といっても、3人の兄弟の家という意味ではありません。16〜18世紀の異なる時代の建物が兄弟のように肩寄せ合って並んでいることから、この名が付いたようです。1
最も古いのが15世紀に建てられたゴシック式の一番右の建物で、一般住宅としてはリーガで最古ということです。当時は窓の大きさによって税が課せられたため、窓枠が小さくなっています。
逆に一番左の17世紀に建てられたバロック風の建物は間口が狭くなっています。これは、当時間口の大きさによって税が課せられたことを物語っています。
リーガ最大の高さを誇る聖ペテロ教会は、尖塔の高さが123.25mもあり、その偉容はリーガのランドマークになっているそうです。
右の写真は、聖ペテロ教会の、高さ72mの展望台にエレベーターで登り、眼下の市庁舎広場を撮ったものです。
かつてはこの広場に市が立ち、祭りや市の条例の布告、魔女の火あぶりなどの刑罰も行われるリーガの中心地だった由。
左側の黒い屋根の建物がブラックヘッドのギルド、その向かい側にあるのが市庁舎です。
左の写真は、1297年にドミニコ修道会によって建立された聖ヨハネ教会です。
15世紀に僧院とともに破壊されましたが、16世紀に再建されたそうです。
この教会にはいかにも中世らしいエピソードがあります。
中世には、建物を邪悪な存在から守るために、生きた人間を塗り込める風習があったそうですが、この教会の壁にも自ら志願した2人の修道士が入っていったという話が残されています。
旧市街の観光を終え、次いで新市街のユーゲントシュティール建築の密集している地域へとバスで向かいました。
ユーゲントシュティール建築とは、19世紀後半に生まれた装飾的な建築様式を指しています。
ユーゲントシュティールという言葉には馴染みがないかもしれませんが、アール・ヌーボーと同意義だといえば、お分かりでしょう。
石や鉄などの固い素材に動きや命を与え、それまでの殻を破った若い芸術ですが、これらの凝った装飾は、お伽噺の世界のようでもあるし、見方によってはグロテスクでもあります。
右上建物の写真で、ところどころに人面のレリーフがあるのがお分かりでしょうか。
この日は、この後、旧市街の真向かいにあるホテル「ダウガワ」に直行し、ラトヴィア…と言ってもリーガだけでしたが…での観光を終えました。
明日は、いよいよ最後の訪問国リトアニアに参ります。