リトアニア
旅程7日目の9月27日、朝8時に出発、最後の訪問国リトアニアに向かいました。
それにしてもバルト3国はみな平地ばかりで、バスで移動中、山らしきものは一切見えませんでした。
国境には約1時間で着き、出国、入国手続きとも、パスポートを集められ、スタンプを押されただけの簡単なもので、各々10分前後で済み、まずはのどかな田園風景を眺めながら、リトアニア最初の観光地十字架の丘へと向かいました。
ここは、ラトヴィア国境に近いシャウレイ近郊の丘で、十字架の丘と呼ばれています。
ロシア皇帝に反逆して殺された人を悼むため、1863年頃から十字架が建て始められたとか。
大小無数の十字架が立ち並ぶ様は、まさに壮絶というほかはなく、高さ5m以上の芸術的なものから、鈴なりに掛けられたロザリオまで、その数はリトアニアの人口よりも多いということで、しかも今なお増え続けているそうです。
民族の祈りと悲しみが創り出した、静寂な十字架の小宇宙、
左の写真はそのほんの一部にしか過ぎません。全体をご紹介できないのが残念です。
十字架の丘を後に、かつてリトアニア第2の都市カウナスへ向かいました。
カウナスは、国土のほぼ中央、ネムナス、ネリスという大河の合流地点に位置し、古くから商業や文化の中心地で、一時期ポーランドに占領されたヴィリニュスに代わって首都だったこともあるそうです。
現在のカウナスは、産業都市である一方、旧市街には中世の面影を色濃く残しています。
カウナス着後、市内のレストランで昼食をとり、観光に出発、まずは「命のビザ」の舞台旧日本領事館を訪れました。
右の写真は、第2次世界大戦の初期、ナチスドイツによるユダヤ人狩りが激化するなか、日本の外務省の意向に逆らって、自らの判断で日本の通過ビザを発給、約6000人のユダヤ人の命を救った杉原千畝さんの使っていた机であります。
杉原さんの功績は、まずイスラエルで60年代に讃えられ、独立後のリトアニアでも最高位の勲章が授けられているそうです。
旧領事館は、現在は杉原さんの記録を集めた記念館になっています。
後々まで語り継がれてほしいものです。
次いで、独立記念碑などたくさんの記念碑や銅像がが並んでいるヴェニエベス広場を散策観光後、旧市街の観光に入りました。
まずは、ネリス川河畔の古城跡カウナス城を皮切りに、15世紀の大きなゴシック様式の建物聖ゲオルギ教会、白鳥のように優美な姿の旧市庁舎、イエズス会の教会、1410年に建てられソヴィエト時代は倉庫として使われたヴィタウタス教会、15世紀建造のゴシック様式の傑作ペリクナスの家、高さ28mの大聖堂などをまわり、中世の面影を堪能しました。
以下、例によって主なものをご紹介します。
左写真が、カウナス城跡です。13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために建てられた城砦で、城を取り囲んでいた壁は厚さ2m、高さは13mもあったそうです。
ネリス川は当時ドイツ騎士団領とリトアニアとの国境となっていたため、何度もここで戦闘が行われたとか。
城はもともと台形の城壁に4つの塔を持っていたそうですが、永年の間にネリス川の氾濫により流されてしまい、今残っているのは、修復された塔と城壁の一部、掘り割りの名残りのみとなっています。
右の写真は旧市庁舎です。
白くて優雅な姿から白鳥にたとえられるバロック様式の建物です。
16世紀に建てられたものの大火で焼失し、18世紀に現在の姿に再建されたものです。
市庁舎前は市民の広場になっていて、かつては裕福な商人達の家で四角く囲まれていた由。
リトアニアがロシア領になってからは、政治犯の牢獄として、その後は皇帝の別宅として使われたとか。
現在は何と結婚式場になっていて、週末には華やかな新婚の集団を見かけることが多いそうです。
左がペリクナスの家です。
いかにも時代を感じさせる建物ですね。
言い伝えによると、この場所には、雷神ペリクナスを祀る寺院があったとのこと。
10世紀に修築が行われた際、30cm大のブロンズ像が見つかり、これこそペリクナスの像という説と、いやインドの神像だという説とで論争が起こった由。
その像は失われたが、ペリクナスの家の名前だけは定着したようです。
右の建物は15世紀に建造された、リトアニア有数の大きさを誇る大聖堂です。
赤煉瓦が美しい現在の建物は1771年に再建されたときのもので、ゴシック様式とルネッサンス様式が混在しています。
内部には壁一面に描かれたフレスコ画、バロック風の装飾を施した17世紀の祭壇、リトアニアで最大のパイプオルガンなどが印象的でした。
この大聖堂は、現在リトアニアの枢機卿の本拠になっているそうです。
以上でカウナスの観光を終え、バスに戻り、約3時間半の走行の後、夕方6時近くに首都ヴィリニュスのホテル「ナウヤシス」に着きました。
ヴィリニュスは、深い緑に囲まれたリトアニアの首都で、バルト3国の首都のなかでは唯一内陸に位置し、ドイツ商人の影響を受けずに建設された街です。
14世紀前半、ゲディミナス大公により首都と定められ、東西貿易の中継地として発展、カトリックの影響が強く、旧市街には、中世の面影を残す街並が続いています。
翌9月28日、いよいよ旅も大詰め、観光最終日です。朝9時にホテルを出発、まずは郊外にあるトラカイ城に向かいました。
トラカイ城は、ヴィリニュスから西に25km郊外のトラカイにある城です。
城は湖(カルヴェ湖)の島の上にぽっかりと浮かんでるように見えますね。(左写真)
ここは森と湖からなるリトアニア有数の観光地で、最初の城はドイツ騎士団の侵略を防ぐ目的で、14世紀にケストゥーティス大公が建設を始め、息子のヴィタウタスの時代に完成したそうですが、17世紀に破壊され、現在の建物は1950年代から始まった工事で復元されたものである由。
城の内部にはレセプションホールや台所からでる煙を利用したセントラルヒーティングシステム、壁の中の螺旋階段など、当時の人の知恵が垣間見られました。
トラカイ城の観光後は、ヴィリニュス市内に戻り、昼食後、徒歩にて旧市街の観光に出発しました。
旧市街の観光は、礼拝堂がある城門夜明けの門に始まり、一旦はバスにてバロック建築の傑作聖ペテロと聖パウロ教会に行き、同所を見学後、再び旧市街にとって帰り、次いで初代大公が13世紀に建立した大聖堂、400年の歴史をもつヴィリニュス大学、旧市街で最も高い鐘楼をもつ聖ヨハネ教会、リトアニア独立宣言の場所、赤煉瓦のゴシック建築聖アンナ教会などをまわりました。
以下、主なものをご紹介しましょう。
ヴィリニュスの市街を取り囲んでいた城壁には10の門があったそうですが、夜明けの門(左写真)は現在も残っている唯一の門だそうです。
(なお、写真は光線の関係で、内側から撮ったものです)
16世紀のルネッサンス様式で造られ、その後幾たびの改修を経て、現在の姿になったとか。
驚いたことに、門の2階部分が礼拝堂になっていて、狭いスぺースに溢れんばかりの人々が 祭壇中央に飾られている聖母マリアのイコン(右写真)に向かって敬虔な祈りを捧げていました。
左写真が、ヴィリニュスにあるバロック建築でも最高傑作に挙げられる聖ペテロと聖パウロ教会です。
確かにどっしりしていて、かつ優美で、実に風格があると思いませんか。
建物そのものは1668年から7年間かけて造られましたが、内装にはその後何と30年あまりかけられているそうです。
中を見ればそれも納得。入った途端、息を飲むほどの彫刻群に目を瞠らされました。(右写真…画質が悪くて申し訳ありません)
右写真が、16世紀に建立された聖アンナ教会です。
この建物もヴィリニュスにあるゴシック建築の傑作のひとつに数えられています。
正面から見ると、塔が3本あるのが特徴的で、外観赤茶の煉瓦造り、正面ファサードには33種類の煉瓦が使われるなど、凝った造りになっています。
何しろ、1812年にロシアに攻めあがるナポレオンがヴィリニュスに入場した際、この教会を見て、「吾が手に収めてフランスに持ち帰りたい」と語ったというエピソードが残っているほどで、いかにこの教会が美しかったかを物語っています。
なお、右手後方に見える建物は、ほぼ同時期に建てられたベルナルディン修道院です。
聖アンナ教会を最後に、解散になったのが午後4時過ぎで、それから殆どの人は添乗員のS.U君の案内で琥珀博物館に向かいましたが、私はひとり皆と別れ、ホテルに向かうバスのドライバーに頼み込んで迂回してもらい、途中で降りてKGB博物館に向かいました。
かねて友人から、ヴィリニュスへ行ったら、ここはフィクションでなくKGBの所業をその目で見ることが出来るので、必見の場所と聞いていたのです。
閉館時間の午後6時にはまだ十分間に合うと、現地に着いたのが4時40分頃だったでしょうか。
しめしめ、まだあと1時間以上余裕あるな、と思って入ろうとしたところ、何と、9月15日からは閉館時間が午後4時と変更になっていました。やれやれ。
これで、今回の旅行の観光日程、すべて終了となり、明日は帰国の途に着きます。