第3日目(午前)
(7/4)
ヒワ
4時32分、モーニングコールならぬモーニングノックで目覚める。えっ! なぜ、今日もこんなに早く起きるのかって? 実はこれからヒワの日の出を見に行くのだ。
外はさすがに早朝とあって涼しく心地よかった。
ホテルの見晴台から見る人もいたが、大多数の人は、昨日も行ったクワナ・クルフの高台まで行き、カメラを構えて待機すること約20分、最初は曇っていたので日の出は見られないかと半ば諦めかけたが、果たして5時28分、砂漠の水平線から朝日が顔を出し、旧市街を照らし始めた光景は実に感動的であった。
また朝日に反射するカリタ・ミナルも美しいものだった。塔に縦に光が当たっているのがお分かりになろう。
日の出観光後は、思い思いにホテルに戻り、小憩後、7時半から昨日の昼食場所でセツトメニューの朝食をとる。ナンやサラダのほかにプリンや目玉焼きなどが出た。
朝食後は10時30分まで自由時間であったが、ガイドのミキさんが,希望者には別のところを案内してくれるというので、それに加わり、8時35分に出発。
まず最初は、昨日一番に行った西門の反対に当たる東門。
ここはコイ・ダルヴァザ門といい、約60mにわたる細長いアーケード状の建物になっている。コイというのは、動物の意で、その名の通り、かつてここで動物が売買されていたとのことだが、どうやら奴隷もここで売られていたらしい。
19世紀半ばにはヒワだけで約3000人の奴隷が存在し、大半はイラン人だったが、中にはロシア人も含まれ、帝政ロシアに幾度となく侵略の口実を与えることになったとか。
アーケードの両側には間隔を置いて大きな窪みがあるが、恐らくはここで奴隷の品定めをしたのであろう。そう思うとやり切れず、早くこの場を立ち去りたかった。
東門を出て、少し行ったところに大きな広場があり、そこは青空バザールになっていた。
様々な野菜や果物、お米などの食料品が中心であったが、日用品や雑貨の類も見られ、大勢の人で賑わっていた。とてもこの中をグループで歩くのは困難なので、思い思いに散ったが、危うく迷子になるところであった。
以下にその賑わいぶりをご覧いただきたい。
バザールを後に、再び東門を通って、イカン・チャラ内に戻り、すぐ右手にあるクトゥル・ムラド・イナク・メドレセへ。
ここは19世紀にできたイスラムの最高学府だった由。中庭には地下への入口があり、階段を下りていくと、そこは貯水池になっており、丸い天井の一部の小さな穴から日が差し込んでいた。
次いで、すぐ隣にある、ハーンの住居として使われたタシュ・ハウリ宮殿へ。
ウズベク語で石の庭を意味するこの宮殿は、3つの中庭と163の部屋からなり、アッラークリ・ハーンの時代に築かれたとか。
下左写真はイシュラット・ハウリと呼ばれる謁見の間で、ここでハーンは各国使節や臣下の者を謁見した由。
その中庭中央には円形の土台の上にはユルタ(下中央)が張られていた。そして、下右写真はその内部である。
これは賓客をもてなすという目的以外に、しばしは冬季にはハーン自身も暖をとるために使っていたらしい。十分な暖房設備のない当時の知恵であろうか。
左写真はアルズ・ハウリという、ハーンが即決裁判を行うための場所で、ハーンの下す判決により、容疑者の出口が分かれていたという。
ちょっと見には謁見の間と似ているが、比べてみると、微妙な違いがお分かりになろう。
ここで、ミーハーの血が騒ぎ、ハーンになったつもりで、王座に腰をおろし、記念に1枚撮ってもらった次第。
ハラムはハーンの私的な空間で、豊富な色付タイルによる装飾が施されている。
左写真は2階にある小部屋の窓で、中庭に集めた愛妾らに向かって、ハーンはここから花を投げ、それをキャッチした女性がその夜の伽の相手をする決まりであったという。
このあたり、ハーンの贅を尽くした中でのささやかな公平感が感じられる。
次に行ったところは、アッラークリ・ハーンのキャラバン・サライ(隊商宿)。
ヒワで唯一完全な形で残っているというので期待したが、内部はデパート(というよりは雑貨店)に転用されてしまっていて、当時の風情が感じられず、がつかりで、写真を撮る気にもならなかった。
10時30分、ホテルに戻り、この日はブハラへの長時間移動に備えて、早めの昼食となる。
いつものように、前菜、スープに続き、マカロンというパスタ風のものが出た。