第7日目(2)
( 5月30日)
エイラット → (死海) → エルサレム
やがて検問場所を通過し、左手にイエスが復活後昇天した場所といわれるオリーブ山が見えてきた。12時55分、展望の丘下のトンネルをくぐり、いよいよエルサレムの町に入ったわけだ。かねてより憧れの地だっただけに、いささか興奮を禁じえない。
まずは市内の一角にある老舗の中華レストラン”MANDARIN”(君子堂)に入って昼食。焼そば、コーンスープ、牛肉とピーマン炒め、チャーハン、鳥のフライ、メロンなど、久方の中華に食も進んだが、ウエイトレスがアルバイトの若い日本人女性だったのには驚いた。
13時、レストランを後に、まずは旧市街南側のシオンの丘周辺から観光を開始する。
旧市街は、あたかもここが特別の存在であることを誇示するかのように、ぐるり城壁で囲まれている。城壁には8つの門があり、それぞれに歴史を象徴する名前が付けられている。
シオン門はシオンの丘に通じる道があるのでこの名が付いているが、シオンの丘にはダビデの墓があるため、アラブ人たちは預言者ダビテの門と呼んでいるとか。建造されたのは16世紀前半で、1967年、この地をめぐるヨルダンとの壮烈な六日戦争当時の弾痕が今も生々しく残っている。
さて、いよいよ城壁内へ入場かと思ったが、内側の観光は明日ということで、今回はここは素通りし、まずはその南側シオンの丘にある最後の晩餐の部屋へと向かう。
最後の晩餐の部屋
ここは、キリストがユダヤ教の指導者たちによって捕らえられる前夜、イスカリオテのユダを含む12弟子とともにレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画で有名な最後の晩餐が行われたとされる場所で、シオンの丘にあるが、丘といっても建物がぎっしりと並ぶ微高地で、そのうちの特に変哲もない建物の3階にその部屋がある。
建物自体は十字軍時代のものなので、今更ここが最後の晩餐が行われた部屋であり、その50日後の聖霊降臨の間でもあるといわれてもいまひとつピンと来ない。
しかし、レオナルドの絵では、キリストが中央に腰掛けているが、当時は身体を横たえて食べるのが普通で、配置も、弟子たち全員を見渡せるようにキリストがいた位置は、中央ではなく、コの字型に配したテーブルの角だったという話には頷けるものがあった。
ダビテ王の墓
最後の晩餐の部屋から階下に降り、シナゴーグになっているホールを抜けて進んでいくと、鉄柵で仕切られた石棺のある部屋にたどりついた。
石棺はダビデの星が刺繍された紫色のビロード布に覆われ、22のシルバーの聖書を収めた経筒で装飾されているが、これはダビデの後継者である22人の王を表している由。また、石棺の上にはトーラ(モーゼ五書)の巻物や王冠が置かれている。
石棺の前で熱心に拝む信者の敬虔な姿が印象的だった。
マリア永眠教会
次に訪れたところは、シオンの丘の頂に立つマリア永眠教会。円錐形の屋根を持つこの教会は、隣りの鐘楼とともに、シオンの丘の目印となっている。ビザンティン時代にすでに最初の教会が建てられていたが、現在の教会は、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世のエルサレム訪問を記念してオスマン帝国のスルタンから贈られた敷地に、ベネディクト派が建てたものである。
1910年から10年かけて完成したもので、エルサレム最大の教会だという。
地下聖堂に降りると、桜の木と象牙で作られた永眠するマリアの像が横たわっている。イエスを中心にして、旧新約聖書に登場する女性たちがマリアを上から見守っているモザイク画は実に見事なもの。また、この聖堂は音響効果が抜群で、時折バロック音楽などのコンサートも開催されているとか。。
鶏鳴教会
次に立ち寄ったところは、シオンの丘をやや東に下った斜面に建っている鶏鳴教会。
「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「今日、鶏が鳴く前に、お前は3度私を知らないというだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て激しく泣いた。(ルカ伝より)
イエスが逮捕、連行されたと聞き、ペテロはイエスの仲間であることがばれるのが怖くなり、夜が明け鶏が鳴く前に3度もイエスを知らないと嘘を言った。そんな故事を記念して建てられたのがこの教会であるが、古くは、祭司カヤパの屋敷跡で、ゲッセマネで捕らえられたイエスが石段を通ってここに連行され、地下の牢獄で最後の一晩を過ごした場所である。イエスはここから総督ピラトのところへ連れて行かれ、裁きを受けたのである。
その名の通り、円塔の先には鶏の像があり、入口の扉のひとつには聖書のシーンを再現するレリーフが刻まれている。
なお、下左写真は、イエスが監禁されていたといわれる地下牢の一部で、血痕らしきものが見られるが、まさかこれがイエスのものとは誰も信じまい。
下中写真は、イエスが連行されてきた石段で、当時のものである可能性が高いとのこと。
下右写真は、連行されてきた様子を描いたレリーフである。
ゲッセマネの園
次いで、一方通行のため、城壁の外側を時計回りに4分の3周して、オリーブ山の麓にあるゲッセマネの園へ。
ここもイエスゆかりの庭園で、かつてこの辺りは一面のオリーブ林で、オリーブの精製が盛んに行われていたらしい。ちなみにゲッセマネとはヘブライ語で油絞りの意とか。
ルカ伝によると、ここはイエスが祈りのために頻繁に訪れていた場所で、弟子たちとの最後の晩餐を終えたイエスが、このゲッセマネの園に入り、この後に起こる出来事を予感しながら、血のような汗を流し、父なる神に苦悶の祈りを捧げたという。
現在もなお残る8本のオリーブの木は、イエスの時代から受け継がれてきたものと信じられている。
万国民の教会
「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ伝より)
この教会は、1925年に12カ国からの献金でゲッセマネの園にイエスが信仰と現実のはざまで悩み苦しんだ場所を記念して建てられたもので、苦悶の教会とも呼ばれている。
内部はイエスの苦悶を象徴して、外装とは対照的に重々しい雰囲気に造られている。祭壇の前にはイエスがその上で祈ったといわれる石が茨の冠を象った柵で囲まれて置かれており、折りしも一人の信者が熱心に祈りを捧げている姿にいささかの感動を覚えた。
以上で本日の観光を終え、16時52分、ダマスカス門を北に1kmほど行ったところにある「The Olive Tree Hotel」に到着する。
ホテル自体は、建ってまだ数年の新しい建物であるが、伝説によれば、この場所は、かつてダビデ王がオリーブの木陰で自らハープを演奏し、聖地に向かう旅人の疲れを癒したとか。その名の通り、吹き抜けになっているロビーの中央に今なお古代からのオリーブの木が植わっているが、もちろん、それがダビデ王ゆかりの木であるかどうかは疑わしい。
さて、夕食は19時からということで、しばし間があったが、朝早い出発でいささか疲れていたので、外出は見合わせ、ゆったりと入浴後、しばしの休憩をとることにした。
夕食は例によってビュッフェ方式だったので、さして食欲は湧かず、スパゲティ中心に具をほんの僅かとスイカを食べただけで、30分足らずで引き上げ、本日の日程を終えた。
(本日の歩数 9585歩)