第6日目
(11月6日)
シェンクワン → ビエンチャン
朝食はパンとオムレツ、コーヒーのみの簡単なセットメニューをとった後、8時50分にホテルを出発、ジャール平原に向かいました。
程なく未舗装の道に入りましたが、土埃がひどく、窓を閉め切っていても衣服がざらざらになるほどでした。
専用バスで走ること約40分、目的地に到着しました。
ここジャール平原は、標高が900〜1100mの高原ですが、ここには、誰が何のために造ったか、20世紀初めに発見されて以来、未だに謎が解明されていない先史時代の石壷が500以上も散在しており、その一部を見学したわけです。
一番有力視されているのは、棺桶として使われていたという説で、1994年に日本の考古学者が来て調査したところ、人骨や鉄器、玉類が発見されたとのことです。鉄器や玉類はおそらく副葬品として入れられていたということでしょうか。
中央の写真、拡大していただくと、左端に人が写っていますので、その大きさが想像つくと思います。
近くには天井に煙突のように穴が空けられた洞窟がありましたが、これは火葬場として使用したと考えられています。
他には、酒壷説、米壷説があるようですが、説得力に乏しいそうです。
この平原には、1964年から1975年にかけてインドシナ戦争に介入したアメリカ空軍が投下した爆弾の跡が随所に見られました。
昼近くにポーンサワンに戻り、時間があったのでレストランでゆったりとした昼食をとった後、シェンクワン空港に向かいましたが、それでも空港に着いたのが出発予定時間の14時40分より1時間半以上も前の13時05分でした。
ラオスでは客が揃い次第、出発する習慣があるので、それを期待しましたが、われわれの乗るはずの機体は一向に現れません。
出発予定時間を過ぎてもまだ到着せず、我々はただ滑走路を眺めてひたすら待つのみでした。
ようやく飛行機が到着し、乗り込んで離陸したのはすでに15時30分をまわっていました。
この間、何で遅れたかの説明は一切なく、これものんびりとした国民性の一環でしょうか。
30分ほどのフライトで、ビエンチャンの空港に着き、直ちに市内観光に向かいましたが、大幅に遅れたために、観光場所はパトゥーサイ(凱旋門)の1ヶ所にとどめ、残りは明日にまわすことになりました。
パトゥーサイに着いたのは17時にあと5分というところでした。17時で入口が閉まってしまうということで、断られるかと思いましたが、そこは時間には鷹揚なラオスとあって、セーフでした。
ここは内戦で戦死した兵士の霊を慰めるために建てられた慰霊塔とか。1960年代から建設は始まりましたが、いまだ未完成の由。
従来はアヌサワリー(記念碑)と呼ばれていたそうですが、パリの凱旋門を模して建てられたことから2000年からは現在の名で呼ばれるようになったとのことです。
確かに上部の突起部分を除けばよく似ていますよね。
まずは4つの柱のうちのひとつに設けられた入口から内部に入り、急ぎ階段を上ってテラスへと向かうと、なかはまだ未整備のままで本当に工事中のといった雰囲気。エレベーターをつけるための吹き抜けの穴もありました。
テラスからはビエンチャン市内を一望できましたが、残念ながら、中心街に向かう西側は逆光のためよい写真が撮れず、上中央の写真は東側の郊外に向かって撮ったものです。
地上に降りて、4本柱の間中央から天井を見上げると、見事なエメラルド色のレリーフがあり(右写真)、どうやらこれだけは完成品のようでした。
17時25分、ホテル「NOVOTEL」に到着し、一風呂浴びて身支度を整え、他のホテルでの夕食に向かいました。
この夜は民族舞踊のショーもあり、男ばかりの食事にはうってつけの目の保養になりました。
どうぞ下の写真を拡大してその雰囲気を味わってみてください。
この夜は20時50分にホテルに戻り、一日の日程を終えました。