8日目

 (7/9)

 

 サマルカンド → タシケント → 機中

 

旅行も終わりに近づき、帰国時までもうスーツケースは開ける機会がないので、慎重にパッキングし、ドアの外に出した後、6時、ホテルで最後の朝食に向かう。

706分、タシケントに向け出発する。約300kmの行程である。

しばしまどろんでいる内に、825分、ティムールの門というところで写真ストップとなる。

 

ここは、かつてティムール帝国時代、タシケントとサマルカンドを結ぶ通りの関所になっていて、通りをまたいで大きなアーチ型の門があったとか。現在はその門は跡形もなく、道の両側に高く聳える崖だけが残っているだけだが,よく見ると、そこには何やら文字が書かれているのに気がついた。

また、その麓には湧き水が出ていた。とても冷たく綺麗な水で、ちょうど地元の人が車で来て、ペットボトルに水を入れて行った。

 

ここで15分ほど休息の後、バスは再びタシケントに向け出発。途中,道路工事のため、大型バスは通れないので迂回を余儀なくされたり、再び青空トイレ休憩をとったりで、時間を費やしつつも、バスは左右に殆ど建物を見ない道をひた走り、正午過ぎに無事タシケントに到着した。

ところどころに検問所があったが、これは道を狭めて徐行させ、無茶な運転をさせないようにするためで、殆どフリーパスの状態であった。

 

ここタシケントはBC2世紀までも遡るオアシス都市であるが、帝政ロシアの支配下に入ってからは欧風化が進み、ウズベキスタンの首都でありながら、最もウズベク色の薄い町といわれる。一方それだけに近代化が進んでいて、“中央アジアの首都”と呼ばれ、中央アジアでは唯一地下鉄が走る街である由。

 

予定より早く着いたらしく、まずは昼食前にイスラム墓地の一角にある日本人墓地を訪ねる。

目当ての日本人墓地は沢山並んだ墓地の奥のほうにひっそりとした佇まいを見せていた。ここは、第2次世界大戦後、この地に強制連行され、死亡した元日本軍兵士が眠っているところ。石碑の表側には世界平和を願う碑文が、裏側には79名の名前が刻まれていて、それを見ると、いやがうえにも厳粛な気持ちにならざるを得なかった。

祈祷師にお経をあげてもらう間、全員しばし黙祷を捧げた。

強制連行といえば、我々はすぐシベリアを思い起こすが、考えてみれば、ここも当時はソ連邦内の地、小規模ながらもここにも戦争の爪痕があったと思い知らされ、わが無知を恥じ入った次第。

 

日本人墓地を後に、遅い昼食を街なかの中華飯店でとった。ウズベキスタンに来て最初で最後の魚料理が出て、みな大喜びだった。

中華レストランだけに、従業員の中には当然中国人がいるかと思ったが、経営者はいざ知らず、店長の女性を初め、みなウズベキスタン人であったのは意外だった。

 

1435分、ウズベキスタン工芸博物館へ。

ここには、ウズベキスタン各地から集められた古代からロシア支配以前までの伝統技術、ゾロアスター教徒の祭祀用器具、10紀の仏像、ソグド人の壁画やウズベクの伝統的な刺繍やスザナなどが展示されていたが、正直言ってあまり興味を惹くものはなかった。こういうところは見る目を持った人でないと、面白くないものだ。冷房はところどころにはあったが、概ねはないも同然で、そのことも重い足取りに拍車をかけたようだ。

 

1555分、ティムール広場に到着。

ここは新市街の中央にある広場で、西側のロマノフスキー通りを背に、この広場から主要道路が東に向かって放射線状に伸びている。広場中央にはティムールの騎馬像があった。

ティムールはソ連時代はチンギス・ハーンと同レベルの悪者として扱われていたらしいが、独立後は突然英雄として奉られるようになったとか。現政権の指導者としては、ティムールは手っ取り早くレーニンと置き換えられる存在だったからだろうか。

 

ここで、1時間強の自由時間が与えられ、希望者はアミール・ティムール博物館へ案内されたが、多くの人は先ほどの工芸博物館で少なからず食傷気味だったとみえ、むしろ付近の散策と、買物などにウズベキスタン最後の自由時間を楽しんだようであった。

私も、チョコレートなどを買いに付近のスーパーに入ってみたが、驚いたことに、品揃えは一応あったものの、ウズベキスタン製のチョコレートはなく、すべてロシア製であった。

日差しは相変わらず強烈なので、早々に引き上げ、木陰で腰掛け、涼をとった次第。

 

さて、1715分に一度集合した後、最後の観光スポットであるナヴォイ劇場まで、希望者のみ、地下鉄に試乗し、その他の人はそのままバスで向かうことになった。

自分を含め約半数の人が地下鉄に試乗(2)したが、運賃は150スム(16)と、その安いのにはびっくり。残念ながら、駅構内や車両は撮影禁止なので、写真は撮れなかったが、駅は思ったより綺麗で、駅ごとに壁の装飾が違っていた。一方、車両は冷房がないので窓は開け放したままであった。

特筆すべきは、駅のエスカレーターが日本に比べものすごく高速だったこと。これでは子供や年寄りは危なくて乗れないのではないか、と余計な心配をしたくらいであった。

降りた駅からナヴォイ劇場までは、まだかなり距離があるということで、大通りまで歩いた上、2台のタクシーに分乗し、目的地についた頃には、バス組はもうとっくに着いていて、待ちくたびれた様子であった。

 

ナヴォイ劇場は、深夜到着・早朝出発のため気がつかなかったが、初日に泊まったメリディアン・ホテルのすぐ真ん前にあった。

収容人員1500人のこの劇場は、第2次大戦後、強制連行されてきた元日本具の抑留者が建設に参加したという建物で、裏側には日本語、ウズベク語、英語でその旨を記したプレートが見られた。

なお、日本人が建てたこの建物は地震のときにもびくともしなかったとそうである。

 

これですべての観光が終わり、レストラン「バホール」というところで最後の晩餐をとる。

メニューは前菜、麺入りスープに続き、メインはステーキだったが、またまた食欲がなく、殆ど残してしまう。

ただ、雰囲気はよかった。さすが首都のレストランであって、なかなか瀟洒な造りで、ピアノとヴァイオリンの生演奏が流れていた。

 

2012分、空港に向け出発し、いよいよ帰国の途に着く。

途中、大統領が来合わせた場所を避けるよう、指示され、迂回、ドライバーが警官に食って掛かっていた一幕もあったが、2035分、タシケント国際空港に到着する。

今日も一日酷暑のため汗をかいたので、搭乗手続きを待つ間、トイレに入り、上半身だけ着替えを済ます。

2135分、ずっと世話になったスルーガイドのミキさんと別れ、税関審査、出国審査、手荷物検査を経て、搭乗口へ。

フライトはアシアナ航空OZ-574便で、座席は44Cで、殆ど最後部に近かったが、幸いなことに通路側であった。

2246分、離陸。しばしまどろんでいると、軽食(サンドイッチ)のサーブあり。これで帰りだという安心感からか、少し食欲が出て、食べられたのは幸いであった。

(本日の歩数 13,263)

 

ホーム

プロローグへ

前ページ

次ページ

スタッフ