第7日目
(7/8)
サマルカンド → シャフリサプス → サマルカンド
5時30分、起床。昨夜は早めに寝んだせいか、早く目覚めた。
節制したお陰でおなかの調子も持ち直したようで、7時に朝食に降り、少量ながら食べることができたのはうれしい限り。
8時ちょうどにバスにて出発。今日はサマルカンドから90km南にある、ティムールの生誕の地、シャフリサプスへのデイ・ツアーである。
30分ほど行ったところで、放牧中の沢山の牛の群れが目に入り、一時ストップ。この辺りはTEPAQULというところとか。周りには牧童の姿は見えず、見渡す限りでは民家らしきものもないので、この牛たちは一体どこから来て、どこへ帰るのかのか、とは誰しも疑問に思うところだ。
シャフリサプスに近づくにつれ、道はいささか悪くなり、バスは揺れたが、手を振る少年少女、ロバに乗った老人、日干し煉瓦の家々、広大なラベンダー畑などの車窓風景を楽しみ、ともかくも10時26分、無事シャフリサプスの中心、広々としたパベータ公園に到着、まずは公園の西側にあるシャフリサプス・ホテルでトイレを借りた後、観光に入った。
シャフリサプスは、ティムール朝の時代、サマルカンドに次ぐ第2の都市が置かれていたところで、1336年、モンゴル系遊牧集団バルラス氏族の一員として近郊の村に生まれたティムールは、ここを拠点として大帝国を建設したとのこと。ティムールが生涯を通じてこの町を第2の都市として重視したのも、単に生まれ故郷というだけでなく、なお軍団の中核にあった氏族の支持を保つためだったといわれている。
観光は、公園の北側にあるアク・サライから始まった。
アク・サライ=白い宮殿という意味とか。実際には青いタイルで装飾されていて、白いわけではないが、白という色には高貴なイメージがあるので、そう呼ばれていたとのこと。
建設には主に征服したホラズム地方から連れ帰った職人を使い、20年以上の歳月を要したといわれ、壁面は青や金のタイル、天井部分は金細工で装飾され、また屋上や1階部分にはプールまであった非常に豪華なものであったらしい。
16世紀後半に嫉妬したブハラのアブドゥル・ハーンによって破壊されてしまったそうで、現在は高さ約38mに及ぶ門の一部が残るのみだが、それだけでも往時の規模の巨大さが実感できた。
なお、この門はアーチ型で、アーチ部分が破壊されたものとか。
今では宮殿跡の公園の中心にティムールの銅像が建っていたが、その表情は往時の栄華を誇っているかのように思われた。
次に、バスで5分ほどいったところにあるダール・ウッ・サーダット(至福の家)へ。
ダール・ウッ・サーダットとは、シャハンギール廟を中心とした建築物群の呼称とか。敷地内に入ってすぐのところに15世紀から生きているといわれる3本の巨樹があり、これは聖なる木なので、大統領令で伐採を禁じられている由。現地語ではチナラという木らしいが、一見プラタナスに似ていたように思う。
ジャハンギールは22歳で落馬により夭折したティムールの長子で、その息子の死を悼んでティムールが建設を命じたが、霊廟は死から約20年後の1392年にようやく完成したという。建物の損傷は激しいが、高さ27mのドーム部分はいまだ健在である。
なお廟内の棺は当然ジャハンギールのものだといわれているが、墓を開けてまで調べてはいないとか。
墓を開けるということは、いくら調査のためとはいえ、イスラム教ではタブーとされている由。
次いで、同じ敷地内の地下にあるティムールの棺へ。
これは1943年に発見されたそうで、大理石製の棺の側面にはティムールの生涯を記した碑文があり、それによるとティムール自身はサマルカンドではなく、ここへの埋葬を望んでいたという。
彼は1405年2月18日にオトラルの地で享年72歳でなくなったが、この年はウズベスタン未曾有の寒波でこの辺りは雪で覆われてしまい、遺体をここまで運ぶことができなかったため、結局ティムールの生前の希望は叶わず、サマルカンドのグル・エミール廟に納められることになり、ここには墓石だけが残った由。
続いて、少し歩いて西側に隣接するダール・ウッ・ティラーワツト(コーラン朗誦の家)へ。
ダール・ウッ・ティラーワツトは元々ウルグ・ベクが建設したメドレセの名だそうで、今では1437年に金曜モスクとして建設されたコク・グンバス・モスクのみが残るだけであるが、青いドームが遠くからでも光って見え、存在感を示していたし、また内部の装飾も見事であった。
次いで、敷地内にある、ティムールの父ダルガイもその地下に眠っていると伝えられるシェイフ・シャムセッディン・クラール廟と、預言者ムハンマドの子孫サイイドの墓石があるグムバズ・サイイダーン廟を見てまわったが、この頃には炎暑の影響で、集中力も途切れ、付いて行くのが精一杯であった。
これで、シャフリサプスでの観光は終わり、バスに乗って昼食場所に向かう。
民家といっても、長テーブルの両側に腰掛けて食事するスタイルはレストランと変わらず、メニューは、いつものように前菜、スープに続き、メインはぶどうの葉で牛肉とご飯を包んだものと、ジャガイモ、人参などを煮込んだシチューのようなものであった。幸い、少しは食べられるようになった。
少し慌しかったが、13時20分には出発,サマルカンドへの帰途につく。
途中、よく道にアーチのようなものがかかっていて、“OQ YOL”と表示されていたのが見えた。これは直訳すると“白い道”ということになるが、要は“事故のないよい道”という交通標語みたいなものらしい。それにしても、現地の車はものすごいスピードで走っている。
バスは、砂漠のまったく何もないところでの青空トイレ休憩や、牛の大群が道路をクロスするのに阻まれたりしながらも、15時45分、無事サマルカンドのホテルに帰着した。
さて、この後は夕食時までは自由時間となったが、希望者にはレギスタン広場で、サマルカンド外語大学日本語学科の学生らとの交流の機会が与えられた。
しかし、非常に残念ながら、この時の私にはもはやこの炎天下で活動を続ける体力・気力ともなく、口を利くのさえ億劫な状態だったので、パスし、部屋で休息した次第。
この8年来、外国人に対しボランティア日本語教師をやってきているだけに、日本出発前からこの機会を楽しみにしていたのだが、止むを得ない選択であった。
この日の夕食は、19時過ぎからバスで10分ほど行ったところにある民家でとる。
夜なので、外観の構えはよく分からなかったが、靴を脱いで家の中に入ってみて驚いた。これが民家か、宮殿ではないのかと思うくらい、内装や家具・調度品などが立派であった。
聞けば、この家の主人は歴史的建物の修復士だそうで、修復の仕事はウズベキスタンでは非常に儲かるのだとか。それにしても一代でこれほどの富を築き上げたとは驚きのほかはない。
食事室も豪華そのもの、下手なレストラン顔負けで、食器類も高級なものを使用していた。
メニューはいつもよりやや違った前菜にスープ、そしてメインは餃子みたいなものであった。
この夜は、21時04分にホテルに帰り、一日の日程を終えた。
(本日の歩数 8,314歩)